千歳冬の陽射し北風が容赦なく吹き付ける寒空の下、わたしは彼のいる街の駅に降り立つ。街が年末年始の催し事でばたばたと慌ただしい最中、わたしは一心に彼の家へと向かう。箱の中のケーキが崩れてしまわぬよう、細心の注意を払いながら、わたしは彼の住むアパートの階段をそろりそろりと昇る。...
財前紅を落として※江戸時代・ヒロインは遊女 「そこの気の弱そうな女郎を一つ」 頭の後ろで申し訳程度に小さく髷を結った、ほとんど散切りと変わらない奇妙な髪形の若い男が、私を指さして言った。何でも、ここいらで有名な賭博屋のお頭の息子であり、いわゆる若頭らしい。朱塗りの格子を抜けると、後ろの方で...
幸村矛盾を謳歌する者後ろの席の男どもが授業中ざわざわと騒いでいてうるさかったので、堪忍袋の尾がぶった切れた私は、そいつらの脳天に思い切り教科書を叩き付けて、机を蹴り上げてやった。「うるさい黙れカス」と罵ってやれば、彼らは床に落ちた文具を拾うのも忘れて茫然と私を見詰めていた。...
幸村たとえば、たとえば、君が今開いた携帯電話のディスプレイに映る送信者が俺だったら、君はその「幸村精市」の文字を見て、今みたいに嬉しさを覆い隠しきれていない様子で口元を緩ませてくれるだろうか。 たとえば、メールを返信して五分と経たずに教室の入り口に現れた男が彼ではなくて俺だったら、君は今...
千歳名もなき恋テストの成績も、両親からの期待も、将来のことも、全てを急に投げ出したくなって、帰りの電車を途中下車した。特に理由もなく選んだそこは、毎日利用している路線だというのにも関わらず、名前すら知らない田舎の駅だった。知らない駅に降り立ち、知らない名前の書かれた看板を茫然と眺める私の...
柳全部、知ってる静寂の中に一つの溜息が落とされた。 「何度目だ?」 「分かんない」 二度目の溜息がこぼれそうになるのを押しとどめながら「だから言っただろう、ろくな男ではないと」と呟く彼に、私はこくりと頷くしか術を知らなかった。 もう何度目になるか分からない。顔が多少良いくらいしか取り柄のな...
木手傍観者はかく語る彼女の左手首には、細い細い傷痕が何重にも刻まれていた。安価な刃物が幾度も横断したそれを見て、周囲の者は当然気味悪がったが、当の本人はそんなことお構いなしとでも言う様に傷を隠そうとはせず、それどころか制服の裾を腕捲りしてみせる始末だった。見せたいからその様なことをするのだとい...
千歳カノンを刻む東京という街は、そこだけ時間の流れが速くなってしまった様なところだと聞いたことがある。東京の時計の秒針はぐるぐると滑る様に滑らかに回転するだけで、カチコチと独特のリズムを刻まない、そんな気がするのだ、と。 閉まるドアを背にホームに降り立つと「東京」と書かれた看板が私を異国の...
謙也頭痛前頭部を押さえ付けられる様な痛みに耐え兼ねて目が覚め、いよいよ今年もこの季節がやって来たのかと直感したのは、日が昇り始めて間もない早朝だった。 梅雨。雨が降って降って、時にこのまま永遠に止まないのではないだろうかと思ってしまう程毎日毎日同じ様に降り続け、それでいて毎年大体同...
財前海は涙を溶かしていた「海行きたい」 「は」 彼女の発した言葉が理解出来無くて、間髪入れずに聞き返した自分の行動は間違っていなかったと思う。何故ならば今は極寒の真冬であり、海水浴の最盛るシーズンとは地球が太陽を挟んで正反対の位置にあるためだ。季節外れにも程があり、この時期に海へ行こうなどと考える...