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朽ちて尚

「ソメイヨシノの実は食用ではない」


そう言って彼は足元の残骸を踏み潰した。


校庭の隅を埋める桜の木は、二ヶ月ほど前に薄桃の花を咲かせたばかりだった。花弁を追いかける子供の横を私と彼が手を繋いで通り過ぎたのは、まだ記憶に新しい。誰もが足を止め、頭上のそれを見上げたものだった。あれから二ヶ月が経ち、梅雨を迎えた今、その姿は跡形も無く消えていた。観賞用の桜の実がどれほど醜いか、知っている者がどれだけいるだろうか。その実には、形良い五枚の花弁を付けた薄桃の面影など、欠片も見当たらない。あるのは緑色の固く苦い塊だけで、極稀に、実の先端にかつて花弁だったしわくちゃの屑が残っていることがあった。梅雨を迎えると、それは花と同じように朽ちて枝を離れ、四月に散り積もった花弁が茶色く変色したものの上にぼとぼとと落ちる。それを幾度となく雨が濡らし、花だか実だかよく分からなくなって腐臭を撒き散らすのである。ただでさえ梅雨時の湿気で息苦しいというのに、私の肺は鼻をつくその臭いを吸い込むのを拒んでいるようだった。頭がくらくらして霞が掛かったようになるのは、きっと酸欠のためだろう。そう自分に言い聞かせた。

茶色くぐちゃぐちゃになって酸性の臭いを放つそれの上に、私と彼は五メートル程の間隔を空けて 立っていた。私はともかくとして、彼はこの光景とはあまりにも不釣り合いで、まるで彼の輪郭に沿って別世界がたたずんでいるようだった。彼は美しかった。


「ソメイヨシノの実は食用ではない」


そう言って彼は足元の残骸を踏み潰した。きちんと磨かれたローファーの靴底から、ぶちりと実が弾ける音がした。彼の靴に実の汁が付いてしまう、そう思った私の喉から、短く声が漏れる。ハンカチを取り出そうと鞄に手を入れて中身をまさぐったが、なかなか見付からない。彼は一歩、また一歩と私の方へと歩み寄り、その度に靴底からぶちぶちと音が鳴った。実が潰れるその感触が心地好くて、私はよくわざとそれを楽しんだが、彼は私とは違う。彼は潔癖なままでなければならない。早く、早くしなければと思うほどに、ハンカチは鞄の奥底に沈んでゆく。そうこうしているうちに、彼は私が触れられるところまで辿り着いてしまった。彼がゆっくりと口を開く。


「俺はお前が考えているほどに綺麗ではない」


そう言った唇はゆるやかに弧を描き、彼はわずかだが笑っていた。その微笑みが、あっという間に滲んでゆく。私はいつの間にか泣いていた。まばたきをするのも忘れて、ぼろぼろとだらしなく涙を流した。それを彼の長い指がそっと拭う。ふわりと藤の花に似た香りが鼻をかすめる。私がよく知る、彼の匂いだった。足元の塊が放つ腐臭が梅雨時の湿気に入り雑じってむわっと立ち込める中、それは水のように涼やかだった。香りの軌道が薄紫色の煙となって目に見えているような気がして、私ははっと息を飲む。気が付けば私は彼の腕の中にいた。私が流した涙で出来た海が、膝下を濡らしていたが、不思議と冷たさを感じない。腐臭はいつの間にか無くなって、薄紫のそれに飲まれていた。茶色の塊の変わりに水草が揺れ、水面には藤の花弁が浮いていた。止まっていた時間が動き出す。私はずっとここで泣いていたのだ。泣きながら、彼を待っていた。


「柳くん、」


ごめんね、と言おうとした唇に、彼の人差し指が添えられた。


「謝らなければならないのは俺の方だ」


待たせてすまなかった。そう言って彼は、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。そんな顔しないで、それが声になったのかは分からない。ただ彼は、先ほどのようにわずかに笑って私の手を握った。私はそれをそっと振り払う。彼は驚いたような困ったような顔をして、何かを言い欠けて、止めた。


「いかなきゃならないのは、私だけでしょう?」


水面に浮かぶ藤の花弁が朽ちることはなかった。



110729

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