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淋しい花が咲くから

「秋は淋しい花の匂いがするの」


そう言って彼女は短く溜息をついた。日の沈みかけた夕時の浜辺に二人で腰をおろして空白の時間を弄んでいると、隣の彼女が唐突に口にしたのがその言葉だった。キンモクセイのことか?と尋ねたのは、秋に咲く花で真っ先に思い浮かんだのがそれだったからだ。彼女は静かに首を振って「ちがうよ」と否定した。


「キンモクセイは勿論だけど、もっと他のものも一緒になって秋の匂いがするの」


他のものとは何かと問うと、「色づき始めた葉とか、少し乾いた空気だとか……」と、指折り数えながら思いつくままにぽろぽろと口にし、最後に畳んだ五本指をぱっと開いた。彼女の手の中から黄金色をした秋の匂いが花粉のように辺りに撒き散らされたのを見たような気がする。その口調は秋の訪れを見付けてはしゃぐ子供のように楽しそうで、それでいて何処か物憂げだった。自分の指先の向こうにある砂を見つめたまま一向に目の合う気配が訪れない彼女の顔を風が幾度か撫で、細い髪が絹糸のように宙を泳いだ。天女を見ているような気分に飲まれて、会話の順序で言ったら次は自分の番のはずなのに何も言えなくなった。一際強い風が二人の間を吹き抜ける。反射的にぎゅっと目を瞑り、再び外の世界に触れたときには彼女との距離がずっと遠いものになってしまったように感じた。「そういうの、全部、全部一緒になって、秋は淋しい匂いがすると思うの」と言って、彼女は再び短く溜息をついた。ふ、と吐き出された息が彼女の言う「淋しさ」を孕んでいるような気がした。「淋しい花は、何処に咲いてるんだろうな」などと間の抜けた問掛けをしてみれば、彼女は「バカだなあ、黒羽は」と言ってうっすらと笑った。「だからあ」と、呆れたように語尾を伸ばす。


「そんな花、最初から無いんだってば」


「そう言ってるでしょ」と付け加えたそれが「これ以上言わせないで」という意味のものであることを悟るまで、いささか時間が掛かり過ぎた。気が付けば彼女は「秋は人を淋しくさせるんだよ」という言葉を口にしてしまっていて、ずっとこれを伝えたくて仕方がなかったという事実を突き付けられた。彼女がこんな風に遠回しな言い方をしたことに腹を立てるつもりがないのは、俺には彼女の比喩の意図するところを悟る責任が少なからずあったためである。俺は彼女の「淋しさ」の原因を知っている。このときばかりは自分の鈍感さを呪った。


「どうして私じゃないのかな」


彼女はおもむろに足元の砂を指でなぞり始めた。そこに書かれた文字をなるべく目にしたくなくて、思わず目を伏せてしまった自分が情けなくて仕方がない。そんな葛藤も虚しく、彼女はその文字をあっさりと読み上げてしまう。


「どうしてサエはあの子を選んだのかな」


それは俺の頭の中で「どうしてお前は佐伯を選んだのか」と変換される。打ち寄せる波が幾度となく砂をさらって文字は濃紺の中に飲まれていったが、彼女は何度でもその名前を書き続けた。受け入れがたい何かを自分に言い聞かせるように繰り返されるその行為は、まるで人間の見てはいけない部分を垣間見ているような気分にさせられて、どうにも胸の辺りが膿んだように疼いた。少し俯いた彼女の前髪の下から覗く瞳は、瞬きをするのを忘れたかのように彫刻の如く見開かれていて、そこに涙は浮かんではいなかったが、きっと潮風が沁みて今に潤んでくるに違いない。


「どうして私じゃ駄目なんだろう」


せき止めていたものが吐瀉物のように一気にせり上がってくるのを、声で鎮めた。はけ口を失ったそれは、代わりに薄桃の爪が痛々しいくらい深く砂を掻くことで一旦は納まったように思われた。それでも程なくすると次の感情の波が押し寄せて、彼女は再び砂に五本の跡を残した。どれだけ彼女が「どうして」という疑問符を吐いて砂を掻いたところで、どれたげ俺がその言葉を受け皿にしてそこに自分のやるせない感情を落としたところで、二人が行きつく先は決まっていて、どちらか一方でも幸せになれる道など最初から存在しない。最初からただ虚しいだけの堂々巡りの中にいる。彼女はそのことを知らない。知っているのは俺だけで充分だった。この気持ちを打ち明けでしまえたらどれほど楽になれるかを考えたことがなかったわけではない。むしろ何度も考えた。そうしなかったのは、事情を全て把握しつくしている自分がそうしてしまうのは、彼女の弱味に付け込んでいるみたいでフェアでないと思ったからだ。あるいは何かに意固地になっていただけなのかもしれない。俺はこの気持ちを自分以外の他の誰にも語ることなく墓場まで持ち帰るつもりでいた。それなのに、秋は人を淋しくさせる季節だから、目の前の彼女を見ていると忘れていた感情がどうしようもなく蘇ってくるのである。

不意に、少し離れたところに見覚えのある人影を目にして、水でも差されたような感触がひやりと背筋を伝わった。どうか彼女の目にそれが映ってしまわないでくれと願う暇も無く、伏せられていた睫毛が持ち上がってしまったことに絶望する。先程とは打って変わって目を輝かせる姿に、痛みとは違う何かを感じる。砂を噛んだような、忌々しい何か。気が付けば、半分上の空でそいつの元へ駆け寄ろうと立ち上がった彼女の腕を掴んで引きとめていた。湿った肌同士が擦れて突っ張る感触を手の中で捉える。きっと痛かっただろう。指の隙間から覗く彼女の肌は、他より幾分白くなり血の気を失っていた。そんなことはお構いなしに、そのまま彼女を自分の腕の中に抱きすくめる。半分くらい開きかけたその薄い唇を塞いでしまいたかったが、それが自分の名前の形に動いたことで思いとどまる。


「黒羽、見られちゃうよ」


分かっていてこうした。見て欲しいとすら思った。見せつけてるんだよとは言えなかった。彼女の背後でそいつが驚いた顔をしてはくれまいかと期待して、そんな風に考えている自分に何を隠そう一番驚いていた。今まで自分を束ねていた何かの箍が外れてしまったみたいにこんな愚かしい行為に及んだのは、全て、秋が淋しい季節だからと言い聞かせて、腕の中で微かに身をよじる彼女の存在が少しでも力を加えれば消えてしまいそうに儚いのを肌で感じながら、抱きしめる力をより一層強めた。このまま消えてしまえばいい。そして彼女共々俺も消えてしまいたい。こんなにも胸の隙間に吹き込む風を冷たく感じるのは、何処かで淋しい花が咲いているからなのだろう。



111030

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