ぶうん、というその音が、天井にぶら下がった蛍光灯のものなのか、それともあの忌々しい夏の羽虫のものなのか、聞き分ける暇もなく仁王の首筋に一匹の蚊が留まった。生きている人間のものとは思えないような生白い肌の上で、それは黒子のように“ぽつ”と黒かった。私はそれをじっと見つめる。蚊はちゅうちゅうと美味しそうに仁王の血を吸い上げていた。私にはそのように見えたのだ。仁王は雑誌の字ずらを目で追うのに夢中で、首筋のそれに気付いた様子はなかった。自分でもいくらなんでも見過ぎだと思ったくらいだから、彼が私の視線に気付くのも時間の問題で、しばらくすると彼はちらりと私と目を合わせ、「分かってますよ」とでも言いたげな表情を浮かべて自分の首裏をばちんと叩いた。私の口から「あ」と短く声が漏れる。彼の手の平は見事にその血をちゅうちゅうとコソ泥していた蚊に命中して、首筋にはもう黒子のようではなくなってしまったそれと、薄赤い血液がぺしゃりと広がっていた。「なんだ、分かってたなら早く潰せば良かったじゃない」と問うと、彼は「めんどい」という一言を溜息と一緒に吐いて、再び手元の雑誌に目を落とした。後々腫れ上がって痒くなる方がよっぽど面倒だと思うのだが、と言ってやる気力は失せていた。仁王の首には未だ蚊の死骸が乗っかったままで、血は外側から乾き始めていた。人間で言ったらきっと物凄く残酷な光景なんだろうな、などという考えがふと浮かんだ。仁王、と声を掛けると、彼はんんーっと喉の奥で唸った。
「死骸、取ったら?」
「めんどい」
ベットの脇に置いてあったティッシュの箱を掴みかけた私の手は、その一言であっさりと行き場を失ってしまった。どうやら彼はその場を動くことすら億劫なようだ。そう思いきや、「飲み物取って来る」と言って立ち上がろうとするものだから、彼が面倒臭がるものとそうでないものの境界が、私には全くもって理解出来ない。死骸をくっ付けたままぶらぶら出歩かれても気分が悪いので、露骨に面倒くさそうな表情をする彼を半ば無理矢理座らせて、ティッシュで首筋のそれを拭い取った。乾きかけていた血は一回では落ちず、二回、三回と擦ると、彼はたいして力を入れた訳でもないのに大袈裟に痛がるので、頭の後ろに付いた尻尾を目一杯引っ張って黙らせた。
仁王の首筋は、白かった。と言うより、仁王自体が白い。こちらは毎日日焼け止めクリームを塗りたくっていても腕の内側と外側では色が違ってきてしまうというのに、羨ましいくらいだ。時折私は、仁王には血なんて流れていないんじゃないかと思ってしまう。しかし、今私の目の前にある陶器のように白く滑らかなそこには、“ぽつ”と赤い点がはっきりと浮き出ていた。彼の身体にも血が巡っているという何よりの証拠だった。それを見ていたら、何だか堪らなくなり、気が付けば彼の首筋にかぷりと軽く噛み付いていた。ティッシュの中で握り潰されているそいつが先程したようにちゅうちゅうと吸う前に、なあ!と発情期の猫のような声を上げる彼に突き飛ばされた。面白いくらい目をまん丸にして私を見つめる彼の姿がそこにあった。彼は「何するんじゃあ」と情けない声で鳴いて首筋をさすった。歯が軽く当たるくらいでしか噛んでいないので、痛くはないはずである。私は、えへへと意味の無い笑いを漏らした。
「仁王って凄く肌白いから、ちゃんと血が流れてるんだって思ったら、ね」
自分でも何が「ね」なのか分からない。
「お前さん、そういう趣味あるんか」
「別に、ないけど」
私の話を無視して「うわーないわー、退くわー」とぶつくさ言いながら飲み物を取りにのそのそを立ち上がる仁王の背中に、蚊を潰したティッシュの塊をポイッと投げつけた。彼はそれに気付いた様子も無く、蚊に刺されたところをぼりぼりと掻いていた。先程まで彼の肌に触れていた私の唇は、まだほんのりと温かかった。
110629
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