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君に包まれて

「ただいま」


ほぼ無意識に発したその言葉に「おかえり」と返してくれる人がほとんどこの家にいないというのはいつものことだった。しかし、ハイヒールのストラップに指をかけたところで、私は異変に気付く。「ただいま」という言葉は、いつものように真っ暗な室内に静かに吸い込まれていったが、今日はどこか違っていた。余計なものをなるべく置きたくないという私の趣味で、普段からほどんど空っぽに近かった部屋が、今日は本当に空っぽになってしまったんじゃないかと思うくらい静かに私の「ただいま」を飲み込んだ。嫌な予感がして止まなかった。玄関のシューズケースに入っている外出用のパンプスの隣に、その二倍近くある大きさの鉄下駄が無いのは、もう見慣れてしまった光景だったが、買ってから数えるほどしか履かれていなくてピカピカに光る男物の革靴も一緒に姿を消しているのを見て、予感は確信に変わる。脱ぎかけていた片方のハイヒールはその辺に放り投げ、もう片方は廊下をばたばたと速足で歩きながら蹴り飛ばすようにして脱いだ。なかなか指先から離れてくれないそれに感じるもどかしさや苛立ちに加えて、不安や焦りが入り混じってよく分からなくなった感情が心臓の真下辺りから喉元へとぐっと込み上げてきて吐きそうになった。両足が裸足になるまでに随分と時間が掛かった気がした。きっと私は今とても酷い顔をしているだろう。暗闇の中、壁に指を這わせて手さぐりで電気のスイッチを入れる。明るくなったそこに“彼”の痕跡は何一つとして残されていなかった。

彼、千歳千里は、私とこの部屋で同棲していた。しかし、同棲していると言っても彼はどこかをほっつき歩いていることの方が圧倒的に多く、時々ふらっと帰ってきて夕飯の席を共にするくらいだった。そんな彼のことだから、この部屋の中に置かれている彼の私物は数少なかった。それすらも、今は見当たらない。こんなことは未だかつて起こり得なかった。財布と携帯電話をズボンの両ポケットに突っ込んで、それ以外はこの部屋に残したままなのが普通で、時折それすらも置いて出掛け、旅先でお金が無いことに気が付き腹を空かせて帰って来るなんてことも、何度かあったくらいだ。まるで嵐が彼の荷物だけをまるまる掻っ攫って行ったようなこの光景は、つまりは一つの事実を表していた。私はそれを分かっていながら、どうしても認めたくなくて、悪足掻きをするように部屋中を駆け回って彼の痕跡を探した。電話一本掛けさえすれば彼の消息など分かるというのにそれをしなかったのは、おそらく掛けたところで繋がらないと何となく勘付いていたからで、そしてそれを確かめるのが怖かったからだろう。本一冊で良い、服一着で良い、いや、髪の毛一本だって構わない。ほとんど泣きそうになりながら、引き出しをひっくり返し、押し入れの中の物を引っ張り出し、部屋中を引っ掻き回したが、彼の持ち物は何一つとして出てこなかった。ふらふらとリビングに戻ると、視界の隅に白く四角い何かを捉えた。手紙だった。途端に、靄が掛かっていたようにぼうっと霞んでいた頭が一気に冴えてゆく。私はそれに駆け寄り、震える手で封筒から中身を取り出すと、かじりつくように目を走らせた。白い紙の上で彼の字が躍っていた。

手紙は、突然姿を消したことへの詫びから始まり、心配ばかりかけてすまなかった、こんな自分を好きでいてくれてありがとうの二言と、今でも君のことを好きでいるという言葉の後に、それでも君には自分に縛られないで生きて欲しい、自分のことは忘れて欲しいと締めくくられていた。文字を追いながら、最後の方は涙で視界がぼやけているのか、ぼたぼたと紙の上に垂れた涙がインクを溶かしているのか分からなくなっていた。いつかこんな日が来ることは、何となく分かっていた。ひとところに留まってはいられない彼のことだから、ふらふらと家を空けて出掛けるのと同じように、私の腕の中からもするりと抜け出て手の届かないところへ行ってしまうんじゃないかと、私はずっと不安だったのだ。彼と話をしていても始終そのことが頭から離れなくて、彼が隣にいるというのに、まるでそこにいないような、空気と言葉を交わしているような、そんな気分になることがあった。彼はきっとそんな私の考えていることなど見抜いていたのだろう。時折、彼は私に「俺なんかに縛られんと、お前さんの好きにしたら良か」と言った。そのつど私は「千歳とこうしていたいの」と訴えた。あの時私が言うべきだった言葉は「一緒にいたい」では無かったというのに、こんなことを今更思い出したところでどうにもならないというのに、どうして思い出の中の私は彼の隣で楽しそうにしていられるのだろう。縛り付けていたのは私の方じゃないか。

嗚咽が止まらない。呼吸が上手く出来なくて、口を目一杯開けて息を吸っても肺に酸素が届いた気がしない。毛玉のようになった何かの塊が喉元にせり上げてきて吐いてしまいたかった。すう、と吸い込んだ空気に春の風に似た匂いを嗅いだ。彼の腕の中を思い出させるこの匂いが、私は大好きだった。干した洗濯物に付いた太陽の匂いのようなそれに包まれて、私はよく居眠りをした。そしてそのごつごつした大きな手が、私の髪を優しく撫でるのだ。まるで子供をあやす母親のようだと言ったら、彼は「どっちが子供だか分からんけどね」と言って笑い、その瞳は、優しさを目一杯詰め込んでいた。私は彼を見上げては、そのふさふさと長いまつ毛を羨ましいと思ったものだ。そうしていると彼が私の視線に気付いて、どうしたと言って首を傾げる。何でもないと言って笑い、再び眠りにつく――まるで昨日のことのように鮮明に思い浮かべることが出来る。縛られないで欲しい、忘れて欲しいだなんて、無理に決まっている。ここにはこんなに“彼”が満ち溢れているのだから。




突然いなくなってごめんなさい。謝っても君は怒るでしょう。怒った顔も可愛いです。でも今はその顔を見ることができないのがとても残念です。君にはいつも迷惑ばかりかけていましたね。夜遅くに帰ってきて夕飯を作らせてしまったり、10日間家を空けたときはほとんど眠れなかったそうですね。本当に申し訳なかったと思っています。それでも君は、こんな俺のことを好きだと言ってくれました。とてもうれしかったです。ありがとう。俺も君のことが大好きです。愛しています。でも、俺に縛られないで好きに生きた方が君のために良いと思うのです。だからこうして出て行くことを決めました。何も言わず出て行って、ごめんなさい。どうか俺に縛られないでください。俺のことは忘れて下さい。さようなら。



110629

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