一人旅をした。急に、どこか自分の知らないところに行ってみたくなり、丁度貯金も良い額に達していたので、衝動に任せるままに有給を取って文字通りふらっと一人旅に出掛けた。行先はどこでも良かった。有給の手続きをしたその日の帰宅途中に立ち寄った本屋でたまたま一番最初に手に取ったガイドブックが、自分の住む地区からそう遠くもなく、かと言って近すぎるわけでもない場所のもので、予算的にも悪くはなかったため、何ともいい加減ではあるが、旅先をそこに決めた。
行った先にあった光景は、まあわざわざ言うまでもないが、私の見たことのないものに満ち溢れており、それなりに旅行を楽しむことが出来たんじゃないかと思う。最終日のお昼過ぎくらいのことだった。旅の見納めに、ここいらで一番有名な寺、正確にはその境内にある花園でも見ておこうと、そこへ向かった。しかし、思いの外そこは観光客で溢れ返っており、ここ数日間人ごみでもみくちゃにされてすっかり疲れ切っていた私は、その光景を見るや否や、隣にあった、おそらく私が持っているガイドブックにも載っていないような小さな小さな寺へと、逃げるように入っていった。
最初から期待はしていなかった、なんて言ったらこの寺の住職に失礼になるかもしれないが、そこにはもちろん見て楽しめるようなものは何一つとしてなかった。そもそも寺院とは、死んだ人の魂を弔うためのものであって、人々の観賞対象となるようなものは本来不必要なはずである、などと屁理屈をこねてみたのは、人の多さに圧倒されて垣根の向こう側の花園を諦めてしまった自分への負け惜しみなのかもしれない。そんな弁解をなるべく見まいとするかのようにずんずんと境内に入っていく。如何にも私はこのお寺の檀家の者ですよ、というような顔をしてみせたが、かえって怪しまれてしまったかもしれない。と言っても、私以外に人っ子一人いやしないのだから、怪しまれるの何もないのだが。
程なくして、それは間違いであるということを知った。人が、いたのだ。墓石の群れより頭一つ分ちょこんと突き出た、図体の大きな男が、あまり広くない墓地の真ん中あたりに立っていた。彼が、私と目が合うや否や人懐っこい笑みを浮かべて「こっちこっち」と手招きするものだから、そのありえないくらい縦に長い背丈や、この場に相応しくない行動に、私は幽霊か何かでも見ているんじゃないかと思ってしまった。「こっち、来なっせ」という聞き慣れない訛り言葉が聞こえた頃には、“向こう”に呼ばれているのかな、などと錯覚したほどである。
と、言っても、私は彼を見て恐怖したわけではないので、呼びかけに答えるようにふらふらと彼の元へと足を進めた。墓石の向こうにいたときにも既にある程度想像出来ていたが、実際に目の当たりにしてみると、近くで見る彼は思っていた以上に大きかった。やっぱり彼はこの世ならざる者なんじゃないかと思い、胸板をぺちぺちと叩いてみると、確かな人の温もりがあり、そこで初めて私は彼が人間であることに納得する。そんな私の行動を(当たり前のことだが)不思議に思ったのか、「何しとっと?」と彼は尋ねた。「いやあ、本当に人間なのかしらと思って」と答えれば、彼は「お前さん、おもしろかね」と言って、再びあの人懐っこい笑みを浮かべるのであった。
「その台詞、そっくりそのまま貴方に返すわ。どうしてこんな辺鄙なところにいるのよ」
「気まぐれったい」
「奇遇ね、私も」
「見なっせ」と、彼が指差した方向に目を向ける。一輪の花が、咲いていた。墓石と地面の僅かな隙間から、少しでも日の光を受けようと身をよじるようにして、一輪の花が咲いていた。
私の視界の端には、垣根の向こう側にある例の花園の、中でも最も見物とされている大きな枝垂れ桜の濃い紅色が見え隠れしていたが、もはやそれを見ようとする気持ちは失われていた。その枝垂れ桜とは対照的に、私の目の前のそれは、花片の色は僅かに桃色掛かっている程度でほとんど白に近く、茎や葉は小指一本で力を加えれば折れてしまいそうに弱々しかった。
どうしてこんなところに、そう思わずにはいられなかったが、この花に限らず植物というものは自身が根を下ろす場所を選べないのだから、仕方あるまい。
死の瀬戸際でかろうじて生きているそれは、同時に、何としてでも花びらを開かせ、茎を伸ばし、葉を広げ、根を巡らせてやる、というみずみずしい生命力に溢れていた。しかし、この花もいつかは枯れる。根が巡るほど、葉が広がるほど、茎が伸びるほど、花が咲くほど、その時期に近付いて行くことになる。墓石とは云わば死の象徴のようなものであり、そこに咲くそれが、死とは真逆の方向に、逆らうかのように生を得ようとするあまり、その行為自体が死へと向かっている。そこにある矛盾を、今まさに繊細で微妙な均衡の中で突き進むそれを見て、私は「美しい」だとか「綺麗」だとかじゃなくて、もっと根本的な、いや母性的な何かが「愛おしい」と、そう言っているような、そんな気がした。
「美しかね」
先程私が打ち消した言葉を、隣の彼が発した。そして、くしゃくしゃの黒髪の下から覗く目をゆったりと細め、その僅かな隙間からじわじわと優しさを滲ませて、笑った。墓石を背に笑う彼を見て思ったのだ、ああ、愛おしい、と。
110105
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