跡部ニリンソウ「お前が一番好きなんだ」 文句ないだろ?と、彼、跡部景吾は実に挑発的な口調で言った。表情は至って真面目なものであるから、あながち嘘でもないのだろう。しかし私は“一番”という言葉を聴き逃しはしなかった。“一番”、それはつまりは“二番”や“三番”、もしくはそれ以上がいるというこ...
佐伯不死鳥がわらった「しーっ、俺ときみだけの、ひみつだよ」 満開の桜の木の下で、彼は静かにそう言った。 佐伯くんが男の子のことを好いていると知ったのは、ちょうど三日前のことだった。まだ冬の気配の消えないその日、校舎裏で隣のクラスのある男とその交際相手と思しき女子がキスしているところに、わたしと...
黒羽淋しい花が咲くから「秋は淋しい花の匂いがするの」 そう言って彼女は短く溜息をついた。日の沈みかけた夕時の浜辺に二人で腰をおろして空白の時間を弄んでいると、隣の彼女が唐突に口にしたのがその言葉だった。キンモクセイのことか?と尋ねたのは、秋に咲く花で真っ先に思い浮かんだのがそれだったからだ。彼女...
財前沈む輪廻バケツをひっくり返したような天気とはこういうもののことを言うのだろう。ざあざあと降りしきるそれはまさしく雨だというのに、空は憎たらしいほどに晴れ渡っていた。雨音は、私の耳に入ってくるそれ以外のものを何一つとして受け入れてはくれなかった。傘を差すことはとうに諦めていた。肩や顔...
柳朽ちて尚「ソメイヨシノの実は食用ではない」 そう言って彼は足元の残骸を踏み潰した。 校庭の隅を埋める桜の木は、二ヶ月ほど前に薄桃の花を咲かせたばかりだった。花弁を追いかける子供の横を私と彼が手を繋いで通り過ぎたのは、まだ記憶に新しい。誰もが足を止め、頭上のそれを見上げたものだった。...
仁王あかいあたたかいぶうん、というその音が、天井にぶら下がった蛍光灯のものなのか、それともあの忌々しい夏の羽虫のものなのか、聞き分ける暇もなく仁王の首筋に一匹の蚊が留まった。生きている人間のものとは思えないような生白い肌の上で、それは黒子のように“ぽつ”と黒かった。私はそれをじっと見つめる。蚊...
千歳君に包まれて「ただいま」 ほぼ無意識に発したその言葉に「おかえり」と返してくれる人がほとんどこの家にいないというのはいつものことだった。しかし、ハイヒールのストラップに指をかけたところで、私は異変に気付く。「ただいま」という言葉は、いつものように真っ暗な室内に静かに吸い込まれていったが...
仁王しゃぼん玉とんだ授業をサボタージュして屋上に足を運んだ。携帯電話を教室に忘れてしまったので、代わりに暇潰しになるようなものはないものかとブレザーのポケットの中をまさぐると、シャボン玉のセットが出てきた。そういえば、よく分からないけれどいつも持ち歩いていたことに気付く。目の冴えるような蛍光ピ...
佐伯まっすぐな鏡バイトを終えて自宅のアパートに着くと、寝室のベットに一人の男が寝転がっていたので、私は黙って静かにドアを閉めた。私のした行動は何ら間違っていないはずである。まるでそうすることが当たり前というように無機質な動きで、ぱたりとドアを閉めた。はて、今のは一体全体何だったのだろう。二...
千歳辿り着く場所一人旅をした。急に、どこか自分の知らないところに行ってみたくなり、丁度貯金も良い額に達していたので、衝動に任せるままに有給を取って文字通りふらっと一人旅に出掛けた。行先はどこでも良かった。有給の手続きをしたその日の帰宅途中に立ち寄った本屋でたまたま一番最初に手に取ったガイド...