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帷(とばり)

  • echo0607
  • 2024年7月21日
  • 読了時間: 6分

売店の軒下に置かれたベンチに腰掛ける一氏の姿を見付けたのは、夏の強い日射しがじりじりと肌を焼く真昼の頃だった。


背中を丸めた彼の姿は、日の光を遮断している庇(ひさし)の影に紛れ込んで消えてしまいそうな程に弱々しく、そこへと誰かが踏み込んだら途端に脆く崩れてしまいそうな程に儚くもあった。私は彼のいる庇の影の中へと御簾を潜る様にして踏み入った。一氏が陽炎のように消失することも、砂の城のようにぼろぼろと崩壊することも無かったが、彼の背負う脆弱で陰鬱な空気は健在だった。


彼の左脇に置かれた炭酸飲料のアルミ缶には、結露した水滴が自らの重みに耐え切れず幾つもの筋を残して流れ落ち、古びた木のベンチに色濃く染みを広げている。それは、彼が缶を開封して一口二口飲んだものの、その後長い間放って置いたことを意味していた。

きっと中身はすっかり炭酸が抜けて、ただ物足りなさと不快な甘味をもたらすだけのものになっているだろう。彼自身もまた、気の抜けた炭酸飲料と同様に見るからに元気が無く、失意の色が見て取れる。そしてそれは、見る側、つまり私に何とも言い難い不快感を与えるのだった。

「一氏」と声を掛ける。私がいたことに初めて気付いたかのような反応を見せる彼の姿にもまた、不快感をえぐられる。「おう」と覇気のない返事と共にもたげた頭にぐるりと巻かれたヘアバンドだかバンダナだかよく分からないもの。こいつが邪魔をして彼の表情を読み取れないことに、少しの苛立ちを覚えた。バンダナに指を掛けて一気に引ったくると、少し遅れて驚いた顔と対面する。


「お、おい、返せや!」


「なんや、元気やんか。心配して損したわ」


バンダナを取り返そうと立ち上がった拍子に彼の指先がアルミ缶をかすめ、ベンチから転げ落ちたそれは、アスファルトに盛大に中身をぶちまけた。すっかり気の抜けた飲料がぷちぷちと微弱な音を立て小さな泡を弾かせながら静かにアスファルトに染みを広げていくのを、私達二人はしばらくの間無言で眺めた。


「ごめん。後で奢るから、許してや」


「ええから、それ」


そう言って彼は私の掌に握られているものを指差す。


「それ、はよ返せや」


「嫌や」


力ずくで奪おうと掴み掛かってくる一氏をかわしバンダナを制服の胸ポケットに捩じ込んで見せ付けると、流石の彼も怖気付き、一瞬間を空けてから「お手上げだ」とでも言うようにベンチにどっかりと腰を降ろした。足元に転がるアルミ缶を拾ってゴミ箱へ投げ入れると、からからと心地良い金属音と共に、残っていた中身がびしゃびしゃと流れ出る音がした。長い溜息をつき背中を丸める彼の隣に腰掛けると、バンダナを無くした吊り目がこちらを覗いていた。


「で、何やお前は」


「なにが」と聞けば「俺に用があるんとちゃうんか」とあからさまに不機嫌な声。


「別に、たまたま通り掛かっただけや」


「どつくど」


「またしょーもないことで落ち込んでるみたいやったから、声掛けてみただけ」


「しょーもないて、俺は真剣に悩んどるんや」


「どうせまた小春ちゃんやろ」


「どうせって何や、小春に謝れ。小春はなあ……」


言葉に詰まり、「小春う~」と蚊の鳴くような声で嘆きながら肩を震わせる一氏を見て「これは駄目だ」と思ったのは、こうなってしまった彼は手が付けられないということをよく知っていたからである。一氏ユウジと金色小春が痴話喧嘩をするたびに、意気地無しのこの男の尻を叩いて仲直りさせるのは、いつだって私の役目だった。どうせ三日もすれば何事も無かったかのように「小春」「ユウくん」とお互いの名前を呼び合って教室の真ん中で恥ずかしげも無く抱き合う関係に戻るのは分かりきっているのに、毎度の如く、まるでこの世の終わりみたいな落ち込み様を見せる彼に、正直うんざりしていた。


「はよ元気出しや」


「うるさい、黙っとけ」


「明日仲直りすればええやろ」


「うう、小春……」


一通り声を掛けてみて、並大抵の励ましの言葉ではどうにもならないことを確かめると、あとは彼が自力で立ち直るのを待つしかなかった。こんなことはもう慣れっこだった。隣で項垂れる彼を尻目に、胸ポケットに押し込まれたバンダナを指先で弄びながら、あれこれと思いを廻らせる。そういえば、“これ”を取った彼の顔を見るのは、初めてのことだった。


一氏ユウジという男と夏の描写はあまりにも相性が悪かった。日焼けを一切していない手足は、羨ましくなるくらい白く、妙な艶かしさもあり、猛暑であることを忘れてしまいそうになる。一歩軒先から外に出れば茹だるほど暑い夏の陽気に曝されるというのに、彼のこめかみの青筋をなぞる汗の粒すら寒々しく思えてしまう。

俯いた顔の輪郭の上で、木立のゆらめきがまだら模様を作って踊っていた。凹凸の少ない骨格、真っ直ぐにすっと通った鼻筋、口角の引き締まった薄い唇、そのどれもが驚くほど調和しているというのに、こんな布切れで顔の上半分を覆うだなんて、この男はどうしてこうも自分の外見に無頓着でいられるのだろうか。ワイシャツの袖口から伸びる腕の皮膚は、うっすらと筋肉の隆起する様を模り、彼が自分と異なる性別であることを顕著に語っていた。

薄い瞼と伏せたまつ毛の下から覗く三白眼は、お世辞にも目つきが良いとは言い難かったが、それがかえって心の内を見透かされているような気にさせるのである。濁りのない白目と、その中央で光を集める虹彩と瞳孔。その中に自分も取り込んでくれまいかと、度々願ってしまう。


「なあ、一氏」


「……」


まともな返事が返ってくることは最初からあまり期待していなかったが、「小春…」と、もう何度も聞いたその名前を口にする声の拠り所のなさがいつまで経っても変わらないことに、何かがぷつんと切れたような気がした。ベンチから立ち上がり、ポケットから引き抜いたくしゃくしゃの布切れを乱暴に叩き付け、文句の一つでも言ってやろうと大きく息を吸い込んだところで、呆気に取られた様子で私を見上げる彼と視線がばっちりぶつかった。ぶつかって、そこで私の動きはぴたりと停止する。バンダナを取って顕わになった彼の瞳が、初めて真正面から私を見据えているという事実に、どうしてか狼狽えてしまったからだ。短めのまつ毛が夏日を反射しながら一重瞼を縁取っている。黒目の表面で、小さくなった私がこちらを覗いてた。吸い込んだ息と一緒くたにして、言おうとした言葉すら飲み込んでしまったかのように、私は口をつぐむことしかできなくなっていた。同時に、背中の辺りがどうしようもなくむず痒くなる。どうしてそんな風に、初めて自分の世界に他人が入り込んできたみたいな余所余所しい表情で私を見るのか。この庇の陰を踏んだときから、私は彼の世界の住人になったような気になっていたのに、彼にとってはそうではなかったのか。


「先帰るで。ほな」


やっとのことで絞り出した声は妙に上ずって聞こえ、自分のものでないような気がした。それを隠すつもりで続けざまに「溢したジュース代」と彼の手に百円玉を押し付けて背を向けると、後ろから声が掛かった。


「二十円、足りひんのやけど」


彼は今、どんな顔をしているのだろう。確かめる勇気は無かった。



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