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黄昏時のブルース

秋の陽はつるべ落としとはよく言ったもので、9月も半ばに差し掛かると、18時を過ぎた辺りからあっという間に辺りが暗くなる。

秋雨降りしきる夕暮れどきのことだった。車を走らせ帰路に向かう途中、人気の少ない住宅街の角を曲がろうとハンドルと切ったとき、唐突に、目の前に黒い影がぬっと現れた。大きな男だった。男はこちらを見向きもせず、ぼんやりとした足取りで車の前を通り過ぎようとした。咄嗟に急ブレーキをかけた。間に合ったかはわからない。ぶつかった感覚はしなかったが、目の前の彼はボンネットの下へと吸い込まれるように沈んでいった。私は声を上げる間もなく、男の姿が消えてゆくのを眺めていた。一瞬の出来事だったが、まるでスローモーションがかかったように時間の流れがゆっくりと感じられた。即座に、轢いてしまったかもしれないという恐怖が私を襲った。車体にもタイヤにも何かに触れた感触はなかったが、もしかしたらどこかに触れていたのかもしれない。何分唐突な出来事だったので、私も冷静ではいられない。逃げてしまいたいという思いが頭の隅をよぎったが、それを打ち払うようにして車の外へと飛び出した。


「大丈夫ですか!?」


緊張でからからに渇いた喉から声を絞り出す。見ると、車の少し前でずぶ濡れの男がうずくまっていた。


「どこかぶつかりましたか?」


返事はない。もう一度声をかけようと息を吸い込んだとき、男がうずくまったまま大きく手を挙げてぶんぶんと振った。


「大丈夫たい!どこもぶつかっとらん。お前さんは悪くなかよ」


聞きなれない訛りのある言葉で、彼はそう言った。いささか緊張感に欠ける間延びした口調だった。そうしてしばらくうずくまって体を揺らし、のそりと立ち上がると、私の方を向いて「すまんばいね、心配かけさせて」と笑った。笑っている場合じゃないと言いたいところだったが、立ち上がった男の予想を上回る背の高さに圧倒され、彼の顔を見上げたまま小さく頷くしかなかった。


「本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫たい」


どこかぶつかっていないか、警察を呼んだ方が良いかと尋ねたが、大丈夫大丈夫というばかりで埒が明かないため、「じゃあどうしてあんなところでうずくまっていたんですか?」と問い詰めた。すると彼は言いにくそうに口元をまごつかせ、腹が減って・・・と聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそりとつぶやいた。見れば少しやつれた顔をしている。その瞬間私の緊張は一気に解けた。つまり、人を轢いてしまったと思って車の外に飛び出したら、当の本人は車と出会いがしらのタイミングで行き倒れていただけというのだ。大きなため息と共に全身の力が抜け、今度は私がその場にしゃがみこんでしまった。


「よかったあ・・・・・・」


「本当にすまんばいね」


雨に打たれてずぶ濡れになりながら気の抜けた顔で笑う彼を見ていたら、憎たらしくも放って置けない気にさせられて、気が付けば私は彼を「家まで送るから」と車の中に招き入れていた。


軽自動車の助手席で狭そうに体を縮こまらせている彼の姿は滑稽で、先ほどまでの緊張感が幾分か和らいだ。後部座席においてあったタオルを渡して、濡れた体を拭くように促す。くしゃくしゃの髪にタオルをあてがってごしごしと水気を拭う彼の姿は、何だか大型犬のようであった。車のラジオから、聞き覚えのある洋楽が流れた。曲名はなんと言ったか。記憶を辿っていると、隣から鼻歌が聞こえた。見れば隣の彼が、鼻歌交じりにタオルで頭を掻きながら、曲に合わせてゆらゆらと体を横に揺らしていた。まったく呑気なものである。


車を走らせながら、すっかり警戒心の解けた私は彼と色々なことを話した。彼が五つ年下の二十歳の大学生であること。熊本生まれで、訛りはその方言であること。散歩が趣味で、時々学校をサボっては外をふらふらと出歩いていること。バイトを始めたが放浪癖のせいで長く続かず、ついには一文無しになってしまったこと。普段あまり喋る方ではない私が、このときは珍しく饒舌になり、車の中は賑やかだった。


大通りに出たところで信号が赤になり、車を止まらせる。話題が途切れ、二人の間に沈黙が流れた。車内は静まり返り、外を走る車の音がずっと遠くから聞こえる。私と彼が乗っているこの車だけが、外の世界から切り離されてしまったような感覚にとらわれた。ふと隣の彼に視線をやると、その横顔があまりにも整っていて、思わず息を飲む。髪の先から滴った水の玉が、まっすぐに伸びる鼻筋をつうっと伝って降りた。日焼けした肌が水をはじいてつやつやと輝く。濡れたまつげが車の外から差し込む街灯の光を反射して、まばたきをするたびにきらきらと黄昏色に瞬いた。瞼の奥で光る瞳と視線が重なる。「何をそんなに見よると?」と、彼が怪訝そうに首を傾げるので、慌ててアクセルを踏んで車を発進させた。私はその瞬間、間違いなく彼に魅せられていた。胸の辺りがむず痒くなった。


車内は沈黙に包まれていた。思えば、私と彼は外の世界を切り離して車内に二人きりである。そう考えると、今更ながら妙に緊張してしまう。私の緊張が移ったのか、彼は何も言わなくなってしまった。足元で唸るエンジンの音と、ラジオDJの陽気な横揺れの声音だけが聴覚を支配する。DJがリクエスト曲を読み上げ、今の雰囲気とは不釣合いな軽快なJ-POPが流れた。気まずさを打ち消そうと口ずさもうにも、私はこの曲を知らない。ギターの音色は私の耳の上を滑るだけだった。


ちらりと隣の彼を盗み見る。どこを見ているのかわからない瞳の上で、車窓から差し込む外の光がちらちらと踊った。水気を帯びた黒髪が、わずかに漏れる西日を反射してつややかに光った。対向車が横切るたびにヘッドライトが彼の顔を照らし、光の当たらない影を色濃くさせた。薄暗い車内に彫刻のような横顔がくっきりと浮き上がり、私は再び息を飲む。胸の辺りがむず痒くて仕方がない。見ず知らずの、つい先ほど会ったばかりの男にこんな感情を抱くだなんて、まるで可笑しなことだと、その思いを振り払うようにハンドルをぎゅっと握った。


信号が赤に変わり、車を止まらせる。何か話題はないかと考えを巡らせていると、不意に額に暖かいものが触れた。見ると、彼が私の前髪を梳いていた。突然のことに何が起こっているのか理解しきれないでいると、彼がこんなことを口にした。


「惚れてしまうばい」


“惚れてしまった”でも“惚れてしまいそう”でもない、紛れもない予告だった。彼は今どんな顔をしているんだろうと覗き見れば、緊張と高揚感の入り混じった二十歳の青年がそこにいた。その表情に、先ほどからずっと感じているむず痒さの正体と同じものを見つけた。途端に、私を縛り付けていた緊張がゆるゆるとほどけてゆく。彼が何を考えているのか、手に取るようにわかったが、「どうしたの?」などと澄ました顔で聞けば、彼は慌てて手を引っ込めて、行き場を失った左手で頭の後ろを掻きながら「うーん」と唸った。自分がしたことに自分でも驚いているといった様子だった。その姿がなんともいじらしくて、空いている彼の右手に自分の指を絡ませた。指先から伝わる熱っぽさが、自分の体温と解けてゆく。目をまん丸にさせてこちらを伺う彼に、わざと気づかないふりをして、見えていない側の口角だけをわずかに上げ、アクセルを踏んだ。

車のラジオから、聞き覚えのある洋楽が流れた。曲名はなんと言ったか。



190220

二周年&四万打フリリク

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