恋人が浮気をした。
三年半付き合って、一年同棲して、来週末の誕生日にはプロポーズされるはずだった。けれども、彼は別の女のところへ行ってしまった。
きっかけは一枚のレシート。出張に行くと告げて家を出た日の日付。彼の会社近くの小洒落たカフェ。アイスコーヒーと、紅茶と、季節のフルーツタルト。レシート1枚、客観的に考えれば浮気を裏付ける証拠としては不十分だ。職場の人との打合せでカフェを利用したのかもしれない。気まぐれで入ってみて、コーヒーも紅茶もタルトも、全部自分で食べたのかもしれない。あるいは、私とのデートの下調べで訪れたのかもしれない。一瞬だけ頭をよぎったそんな憶測のすべてを、私の直感は否定していた。
その後、一ヶ月も経たないうちに浮気の証拠は次々と掘り起こされ、時を待たずして彼に突きつけることになった。思えば、薄々勘付いていたのかもしれない。日常の中の僅かな変化、彼の表情や仕草の微かな歪さ、言葉の端々に滲む矛盾の切れ端。それらを手掛かりに、一度完成させたパズルをもう一度バラして嵌めていくような作業だったように感じる。「やっぱり」「思ったとおり」そんな言葉を幾度となく発して、彼が作り上げた浮気のストーリーを完成させた。相手は職場の三つ下の後輩だった。今年の春に同じ案件を担当するようになって仲が深まり、打上げの飲み会後に初めて男女の間柄になったようだった。その日、私のところには「終電を逃したから同僚の家に泊まる」と連絡が入っていた。ありきたりな嘘の理由。その後も幾度となく繰り返された使い古しの嘘。
想定外だったのはここからだった。というより、証拠を集めて彼に突きつけた後のことを、私は全く考えていなかった。
「ごめん。本当に悪かった。でも、きみとはもう一緒にいられない。彼女のところに行きたいんだ。」
呆気ない幕引きだった。部屋に残っているものは全部捨てて良いから。そう言って彼は、最低限の荷物だけをまとめて一夜にして家を出て行ってしまった。まるで私からこの話を切り出されるのをずっと待っていたかのようだった。思えば、証拠集めが想定より難航しなかったのも、彼の意図するところだったのかもしれない。
証拠を突きつければ、彼は泣いて謝って「別れないでほしい」と自分に縋り付いてくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。許しを乞う彼の姿を想像しては、何という言葉を投げかければ良いか、だなんて考えたこともあった。今となっては、杞憂だった。そんなことに思いを巡らせること自体が無駄な時間だった。
誰もいなくなった空虚な部屋の室温を抱いて、ひとり、眠れぬ夜を過ごした。一睡もできずに朝を迎えるだなんて、この部屋に来てはじめてのことだった。レシートを見つけたあの日でさえ、明け方頃には眠りに落ちていたというのに。
寝室の窓から射し込む朝日を、レースのカーテンが優しく包んでいる。羽毛布団の繊維の地平線を視線でなぞり、そこにいつもの緩やかな曲線の丘がないことに落胆した。クイーンサイズのベットは、寝相の悪い二人が寝るには少し狭かったけれど、一人で使うには広すぎた。もう隣で寝息を立てる人はいないというのに、律儀にベッドの右側に収まっている自分が滑稽で、鼻で笑いたくなった。大きく息を吸い込む。羽毛布団にはまだあの人の匂いが残っていて、今度は泣きたい気分になった。自分の情緒の変化が嫌になる。
鉛のように重たい体を起こし、部屋を見渡す。「休みが取れたら一緒に行こうね」と言って二人で集めた旅行雑誌、全部二つずつの食器類、共用で着ていた私には少し大きめのアウター、彼の趣味に感化されて買ってみたゲームソフト、冷蔵庫の中に残っている作り置きのおかず。この部屋には、あの人の存在を呼び起こすものが多すぎた。
「捨てよう」
ここにあるもの、全て。捨ててしまおう。残っているものは全て捨てて良いからと、彼も昨日言っていたじゃないか。
台所のシンク下からゴミ袋を引っ張り出して、目につくものを片っ端から突っ込んでいった。あの人との思い出を孕んできらきらと眩いはずだったもの、目を背けたくなる現実をつきつけるもの、彼とのこれからに思いを馳せて心を躍らせたもの。それら全てを、胸に留め置く暇も与えず仕舞い込んで、袋の口を固く結んだ。
雑誌や書籍は次の古紙回収まで捨てられないため、玄関先に積み上げておくことにした。今すぐにでも捨ててしまいたかったが、仕方あるまい。食器やゲームソフトは、中古品販売サイトに出品するか悩んだ結果、梱包するのが面倒になり、紙袋に入れて古紙の隣に並べた。少し大きめのアウターは、袖を通しかけて、襟元の布がほつれていることに気がついてゴミ袋に押し込んだ。作り置きのおかずは、捨てるのも気が引けたので、全部一人で平らげた。
最後に空腹を覚えたのはいつだったか。ここのところ食べ物が喉を通らず、まともな食事を取れていなかったことに気がつく。昨晩、この先に続くはずだったあの人との“これから”が無くなってしまった事実に押し潰されそうになりながら「死んでしまいたい」とすら願ったことが嘘のように、食べ物を口に運ぶごとに、私の体は生きることを渇望した。麻痺したように凍りついていた脳の神経に栄養がいきわたり、頭の中の靄が晴れて思考の透明感が増してゆく。ベッド下の収納棚から久しく使っていないマグカップを引っ張り出してハーブティーを入れた。お気に入りのマグカップで、一人暮らしのアパートから今の住まいに持ち込んだが、彼と揃いのカップを買って以来、食器棚のスペースを取るからと仕舞っていた。温かいハーブティーを飲んで一息つく。これからどうしようか。
ひとまず、山積みのゴミ袋を片付けよう。運が良いことに、今日はゴミの収集日だった。
はち切れそうなゴミ袋を両手いっぱいに抱えて、アパートのドアを開けた。共用廊下の手すりに雨粒が列を成して、朝日を規則正しく反射している。昨晩は雨が降ったようだ。雨水を含んだアスファルトから立ち昇る、土と湿り気と油っぽさの混じった独特な匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。これだけ地面が濡れているということは、相当な雨音がしていたはずだが、昨夜の私はそれに気づけないほど憔悴しきっていたようだ。
歩いて二分のゴミ捨て場に着き、空きスペースに袋を下ろした。部屋に残っている残りの二袋を取りに行こうと踵を返しかけたところで、視界の端でもぞもぞと蠢く何かを捉えた。猫か、何かの動物か?と思ったが、あまりの大きさにその考えは一瞬にして否定された。よく見ようと首を傾げる。
「ひっ……!」
人だ。声にならない悲鳴が秋口の冷ややかな空気を絡め取って、喉の奥をひゅっと通過した。
人だった。180cm以上はありそうな大柄な男が、ゴミ捨て場の端で体を小さく折り畳んでいた。
男が背伸びをして顔を跨げる。視線が重なる予感と、それを拒む自分の本能との間で僅かな葛藤が生まれたが、コンマ1秒後、不運なことに男と目が合ってしまった。男の顔が綻んだ。ほっと安心したような表情。見ているこちらにも、頬の筋肉から力が抜けてふにゃりと緩んでいく感覚が伝わってくる。
「あの……」
大丈夫ですか?と尋ねるより早く、「大丈夫です!」と男は叫んだ。
「あ、いや、大丈夫ではないんですけど……財布も無くしちゃうし、スマホも充電切れだし。そもそもここがどこだかもわからなくて。えっと、その、大丈夫っていうのは、怪しいものじゃないですよっていう意味の大丈夫で……あ、でもこんなところに居たら、怪しいと思われても無理もないですよね。参ったな……」
男は立ち上がり、捲し立てるように話しはじめた。困った様子で眉を八の字に下げて慌てふためく彼の姿を見ていたら、張り詰めていた緊張の糸が緩んでいった。彼の仕草や口調から、悪い人間ではないのだろうということが伝わってくる。彼のことを悪い人間ではないと思った理由は、それだけではなかった。少し皺が寄ってしまっているけれど、きちんと手入れされたワイシャツ。シンプルながら上品なデザインのネクタイは、おそらくブランド物だろう。脚のラインを綺麗に模ったスラックスとピカピカの革靴。そしてその二つの間からちらりと見える無地の靴下さえ、上質なものに見える。おそらく相当育ちの良い人間であるということが、その風貌から見て取れた。
「飲み過ぎには気をつけた方が良いですよ」
そう忠告したのは、彼の周囲から僅かにアルコールの匂いを嗅ぎ取ったからだ。おおかた酔い潰れてゴミ捨て場の隅で一晩過ごしたのだろう。
「あ、臭いますかね、やっぱり。ごめんなさい」
彼はワイシャツの裾に鼻を近づけて、すんすんと二、三度息を吸った。
「わたしに謝られても困るんだけど」
「あ、そうですよね。ごめんなさい」
参ったな。どうしようかな。と、彼はまだ落ち着かない様子で始終周囲を見回したりポケットに手を突っ込んでは出してみたりと忙しなく動き回る。ひとしきり動作を終えたのち、諦めたようにため息をついて大きく肩を落とした。偶然、再び視線が重なる。敢えて目を逸らすと、途端に彼の眉尻と口角が一緒になって下がり、落胆した表情ができあがった。本人は無意識なのだろうが、わかりやすすぎる。
「スマホ、うちで充電していきます?あと、よかったらシャワーも浴びてください。そのままじゃ、帰れないでしょうに。あと、ここは◯◯町です。ご自宅はどこですか?遠いようなら、交通費くらいなら貸しますよ」
彼の欲しいものを全部詰め込んだであろう一言。言い終わるや否や、彼の表情がぱっと明るくなった。
********************
恋人に浮気された。
高校三年生の途中から付き合い始めて、大学、社会人を経て六年近く。来年あたりに同棲を始めようという話も出ていて、休日二人で家具を見に行くこともあった。
自分は浮気をするような人間とは交際しないと思っていた。そういった浮ついた思考の人間とは関わりのない世界に住んでいると思っていたし、万が一その類の人間が身の回りにいたとしても自分なら見抜けるはずだという、根拠のない自信があった。初めて交際した異性と、初めて体を重ね、そのまま婚姻関係を結び、一生を添い遂げる。処女でなくなることと童貞でなくなることは同等であると考えていたし、童貞を捧げたということは、すなわち自分の未来を相手に託すことだと、本気で信じていた。自分の考える未来に、それ以外の選択肢は存在しなかった。
「他に好きな人ができたの」
消えてしまった。
二人で住む家を契約して、家具を選んで、家事の分担を決めて、お互いの両親に挨拶に行って、一年くらい同棲したら彼女の誕生日にプロポーズして、両家顔合わせを終えて、役所に婚姻届を出す。少ししたら結婚式を挙げたい。彼女の要望を出来るだけ取り入れて、ささやかだけれど拘った式にしよう。二年くらい新婚生活を楽しんだら、子どもが欲しいな。できれば二人。その頃には俺も仕事が少し落ち着いて、育休も出来るだけ取って、二人で子育てに奮起して。子どもが大きくなったら土日はドライブに出かけて……その先もずっと家族四人で仲睦まじく過ごして、二人の子どもが自立したら、夫婦二人で穏やかに老後を迎える。そういう、思い描いていた将来の一切が、その一言を耳にしたときを境に、消えてしまった。「初めて交際した異性と、初めて体を重ね、そのまま婚姻関係を結び、一生を添い遂げる」という理想を叶えるためには、俺は一度死んでから別の人間として生まれ変わるしか方法がなくなってしまった。
「ごめんなさい。その人と一緒になりたいの」
聞いてもいないのに、彼女は自分がこれからどうなりたいかを語り始める。聞いてもいないのに、相手の素性や知り合った経緯を語り始める。相手は三つ上の職場の先輩で、春から同じ案件を担当するようになって仲が深まったそうだ。頼り甲斐があって、自分のことを守るべき存在として大切に扱ってくれるところに惹かれたのだという。そんなありきたりな理由で、と思わなかったわけではない。それ以上に、心底どうでもよかった。昨日まで愛おしかったその存在が、今は嫌悪を通り越して途端にどうでもよくなり、別人を見ているような感覚からか、部屋の中にいるこの異質な存在を早く追い出したくて仕方なかった。
「どうでもいい。もう顔も見たくないから、出ていってくれないか」
彼女は泣きながら俺の部屋を後にした。泣きたいのはこっちの方だ。
先程までここにいた彼女の体温がわずかに残る部屋に、一人残される。自分の部屋だというのに、知らない空間に放り出されたような気分だった。
二人で行った旅行先で買った対になる雌雄の兎の置き物。彼女が毎年俺の誕生日にプレゼントにくれた手作りのアルバムは、高校時代から数えるともう六冊目だった。肌触りの良い大きめのブランケットにくるまって、週末よく映画を観たものだ。泊まり用に置きっぱなしにされた化粧品や私物。俺の好物を作るためにキッチンに買い置きされた調味料。玄関のマットやソファに並べられたクッションなどの小物の数々は、彼女の趣味で選んだものだった。同じ時間と空間を幾度と共有して、つい先程他人になってしまった人間との過去を思い起こさせる物の数々。部屋の中にいるだけで、息が詰まりそうだった。
一番近くにあったアースカラーの水玉模様のクッションに手を伸ばしかけて、そこから一歩も体を動かせなくなった。ここから先、この部屋の中から必要なものとそうでないものを選別してゴミ袋に詰め、分別し、収集日ごとに捨てに行くことを考えると、途方に暮れるしかなく、両膝から力が抜けていくのを感じた。
結局その日は一睡も出来ずに出社した。明らかに様子のおかしい俺を見兼ねたのか、先輩社員から「何かあったか?」と何度も聞かれた。堪らず、六年交際して結婚も考えていた彼女に浮気されたと答えると、「女に付けられた傷は、アルコールと別の女で癒すんだ」とか何とか訳のわからない持論を述べ始め、仕事を終えるや否や、あれよあれよと言う間に他の社員を巻き込んで居酒屋に連れて行かれた。
最初は俺の話に耳を傾けていた同僚や先輩たちも、お酒が進むに連れて、身の上話や自身の過去の恋愛、社内のゴシップ的な話題を口にするようになった。「ぶっちゃけた話、前の彼女と付き合っていたとき三股していた」「この間飲み屋で知り合った女とそのままホテルに行った」「妻に内緒でマッチングアプリをやったことがある」「◯◯課の課長と女性社員が不倫している」普段だったら心底どうでもよくてくだらない、軽蔑さえする話だったが、そのときの俺はそれらに耳を傾けながら、アルコールでぼんやりする頭で考えを巡らせ、案外世の中なんてそんなものなのかもしれないと思い始めていた。そういえば、同じ会社の人からこういった類の話を聞くのは、初めてかもしれない。皆、俺の潔癖さと変に生真面目なところに薄々勘付いていて、日頃は口にしないように気を遣っていたのだということに気付く。
顔を赤めながら興奮気味に過去の恋愛の武勇伝を語る先輩社員の姿を見ていたら、何だか全てがどうでもよくなって、手に持ったグラスを一気に仰いだ。「お!鳳、いくねー!」と煽る同僚の声を聞いた気がした。そこから先は、もう記憶にない。
気がつくと目の前には見たことのない景色が広がっていた。知らない街の、知らないアパートの前のゴミ捨て場。どうやらここで一夜を過ごしたようだ。飲み慣れないアルコールと寝不足でどろどろに溶かされた意識の中で、必死に昨晩のことを思い出そうと試みたが、何時に居酒屋を出たかも、どうやってここに来たのかも思い出せない。
昨夜は雨が降っていたようで、乾きかけのワイシャツが体にまとわりついて不快だった。今日が真冬でなくて本当に良かった。それでも明け方の冷え込みに堪らず一つ、くしゃみをする。くしゃみの振動が体全体に電流のようにびりびりと広がって、ぼんやりした意識の輪郭をはっきりとさせてゆく。同時に、自分の今置かれている状況を嫌でも考えなければならなくなった。財布は?……ない。スマホで同僚に連絡しよう……充電が切れている。腕時計の針は6時半を指していた。会社に向かう方法を試行錯誤している途中で、有給を取っていたことを思い出した。昨日の自分のその判断だけが、この状況下での唯一の救いだった。
不意に、真横からどさどさと重い物が落ちる音がした。見ると、近くのアパートの住人らしき女性が、ゴミ袋を放り投げていた。考えるより先に体が動いた。こちらを向いてくれと懇願しながら、ぐっと背伸びをして彼女の目線の先に自分を捩じ込むと、僅かな間、だが確実に目が合った。怯えた表情で今にもその場から逃げ出しそうな彼女。俺にできることといえば、終始まとまらない、何の説明にもなっていない言葉を並べるだけだった。
「大丈夫です!あ、いや、大丈夫ではないんですけど……財布も無くしちゃうし、スマホも充電切れだし。そもそもここがどこだかもわからなくて。えっと、その、大丈夫っていうのは、怪しいものじゃないですよっていう意味の大丈夫で……あ、でもこんなところに居たら、怪しいと思われても無理もないですよね。参ったな……」
二言三言会話を経たのち、彼女はこう言った。
「スマホ、うちで充電していきます?あと、よかったらシャワーも浴びてください。そのままじゃ、帰れないでしょうに。あと、ここは◯◯町です。ご自宅はどこですか?遠いようなら、交通費くらいなら貸しますよ」
ほんの十数秒の言葉によって、危機的状況は回避された。ここは自宅から電車で二駅の場所だった。電柱に取り付けられた長方形の立札が目に入る。
「◯◯町4丁目」
********************
犬を拾った。大きな犬だ。
名前は「鳳長太郎」というらしい。会社の飲み会で酔い潰れてアパートの前のゴミ捨て場で目が覚めたところを、たまたま通りかかった私によって拾われた。
知らない男を家に招き入れるなんて不用心だと思わないわけではない。「どうせこの家にあの人は帰ってこないのだから」というやけっぱちな思いが、私のガードを幾分か緩くしていたのではないかと問われると、否定できない部分はあった。私は彼を犬か何かの獣類と思い込むことで、自分の愚かな行いを肯定しようとした。実際、雨水を体に纏ってゴミ捨て場の隅で佇む彼の姿は、さながら大型犬のようだった。
「引っ越しされるんですか?」
玄関にうず高く積まれたゴミ袋や不用品の山を見て、何かを察した彼が尋ねる。
「ううん。そういうんじゃないけど、断捨離、みたいな?」
「これも捨てちゃうんですか?」
と、彼はポリ袋から透けて見える二対のガンガルーの置物を指差した。あの人とオーストラリアに旅行に行ったときに買った物だ。
「そういうのは普通見てみぬふりをするものじゃない?」
「あ、そうですよね。ごめんなさい……」
「一昨日ね、恋人と別れたの。浮気されてたみたい」
だから要らないの、これは。もうすぐ結婚すると思ってたのに、わたし、馬鹿みたい。と、不満を漏らす私の声は掠れていた。聞かれてもいないのに、あの男と浮気相手の馴れ初めや、浮気を知ったきっかけを話し始める。二日ぶりにまともに他人と会話をしたことで、張り詰めていた糸のような何かが千切れ、溢れる言葉を堰き止めることが出来なかった。初めて会ったというのに、こんな風に身の上話をしてしまうのは、彼が大きな犬だから。拾った犬は、従順で、飼い主の話をよく聞くものだから。そう自分に言い聞かせた。
私の話に耳を傾けながら、鳳くんの顔色がみるみるうちに青ざめていった。最初は傾聴する姿勢を示すかのように頻繁に打たれていた相槌の感覚がどんどん空いてゆく。
「あの、こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが……」
彼は唐突に私の話を遮って身を乗り出した。
「彼氏……あ、元、彼氏さんのお名前、聞いても良いですか?」
何故そんなことを聞かれなけれならないのだろうと思いながら、忌々しい名前を口にする。
「××××」
その名を耳にするや否や、彼はその場に蹲った。
“俺の、元恋人の浮気相手です。”
********************
その人の家は、一人で住むには少し広すぎて、二人で暮らしているのなら物が少なくどこか寂しげだった。玄関先にうず高く積まれたゴミ袋や紙袋の中の不用品らしき物が、その答えだろう。室内の壁や棚のいたるところにある無造作な空白が、家主に現実を突きつけているようで痛々しかった。不意に、紙袋から顔を覗かせているゲームソフトのパッケージが目に留まった。元恋人が二ヶ月ほど前にそれを手にしていたことを思い出す。ゲームをやっているところなど一度も見たことはなかったのに、唐突に新品のゲーム機とソフトを購入し、俺の部屋のソファの片隅で小さくなりながら、慣れない操作に顔を歪めていた。
思えば、そのときから少し予感はしていたのかもしれない。家主であるその人がこの部屋から物を捨て去る決意をした経緯やその原因となった人物について話を聞くうちに、予感は確信に変わっていった。自宅から電車で二駅、同じ生活圏内に住む人間が同時期に恋人を浮気で失うなんてことが、偶然で起こり得るだろうか。
「××××」
あの女のスマートフォンの通知画面に何度も表示された名前だった。
普通浮気相手の登録名くらい変えておくだろう。詰めが甘い。いや、俺が舐められていただけなのかもしれない。“どうでもいい”と一度捨て去ったはずの感情が波となって胸の辺りに迫り上げてきて、吐き気と眩暈に思わずその場に蹲った。
どうしたの?と焦った様子で俺の背中を摩る彼女。
「俺の、元恋人の浮気相手です」
絞り出すようにそう告げた。
目をまんまるに開き、口をぽかんと半開きにして驚く彼女を見て、こんな状況だというのに、どういうわけか“可愛らしいな”とほんの少し愛しさを感じた。
彼女は一度は驚きはしたものの、しばらくすると気を取り直したようで、俺にシャワーを浴びるよう促すと、いそいそと自室から写真や書類の束を抱えてリビングで何やら作業を始めた。
シャワーを終えてリビングに戻ると、ソファーの前のローテーブルに書類を広げ、カーペットの上で正座する彼女の姿があった。テーブルの端には、ガラス製のティーポットの中で浅葱色の茶葉が踊っている。その傍らには背丈の違う二つのマグカップ。一つは赤いタータンチェック、もう一つは無地の薄水色。鼻腔を擽るほのかな香りは、カモミールティーだろうか。
「鳳くんには辛いことを強いるかもしれないけれど、わたしは確かめずにはいられないの。お願い、少し話を聞かせて」
ティーポットのお茶を注ぎながら、彼女はそう告げた。促されるままにカモミールティーを一口啜ったのち、“答え合わせ”が始まった。
写真や書類の数々は、彼女が元恋人の浮気の証拠を集めた際のものだった。膨大な量だった。これを集めるのにどれだけの時間と労力と心理的負担があったのだろうかと想像し、その途方のなさに目が眩んだ。中には目を背けたくなるようなものもあったが、彼女のこれまでの苦労を考えると、要望に応えずにはいられなかった。
「凄いですね……これだけの証拠、集めるのは相当大変だったでしょう」
「それがね、そうでもないの。一ヶ月もかからなかったかな。あの人、詰めが甘いから」
そう冗談っぽく言ってはにかむと、ふたたび写真に目を落とした。
俺の口から証言できることと言ったら、元恋人から聞いた浮気の経緯や相手の特徴、人となりくらいだったが、それだけで十分なくらい、彼女の集めた証拠は完成されていた。今思えば日々薄っすらと違和感を抱いていたと言えなくもない元恋人の言動ひとつひとつに、目の前の回答がぴったりと当てはまっていく一連の流れは、ひどく作業染みていて、心地良いくらいだった。
ひとしきり“答え合わせ”を終えたのち、彼女は長い長いため息をつき、マグカップの中の浅葱色の水面に目を落とした。
「カモミールティーにはリラックス効果があるっていうんだけど、そうでもないみたい」
興奮して喋りすぎちゃった。ごめんね。そう言って彼女は鼻の頭を摩った。
「俺、そろそろ帰りますね」
立ち上がり、スマートフォンと丸めたネクタイをポケットに突っ込むと、玄関に向かった。革靴に片足を突っ込んでいる最中、視界の端で、カンガルーの置物を捉えた。不意に、自宅の様相が目に浮かぶ。
帰りたくない。
先ほどシャワーを浴びたとき、昨晩のことを思い出したのだ。居酒屋を出た後、俺は自宅へ向かう電車に揺られながら、最寄駅が近づくごとにあの部屋の景色が鮮明になっていくことに嫌気がさしていた。そのときもずっと考えていた。「帰りたくない」と。結局、最寄駅で電車を降りることはできず、気がつけば吊革を握ったまま二駅乗り過ごしていた。シャワーの温かいお湯が芯まで凍えた身体と脳を解きほぐし、頭の中の靄を晴らしてゆくさなか、自分の部屋への拒絶反応の感情は、色濃く、くっきりと縁取られていった。
帰りたくない。けれど、どこかに帰りたい。
矛盾した思いが頭の中を錯綜し、四肢に至る自意識を曖昧にしてゆく。もう片方の革靴が上手く履けない。
「どうかしたの?」
彼女が怪訝そうに俺の顔を覗き込む。こんな風に心配されるのは、今日で三回目だ。
「帰りたくないなって、思ってしまって……あ、いや、変な意味じゃなくって、その……自宅には、前の恋人を思い出させる物が沢山あるんです。あの部屋に帰らなきゃいけないんだなって思うと、気が重くて。俺もこんな風に思い切りよく捨てられたらよかったんですけど」
そう言って足元のゴミ袋を指差す。カンガルーの置物は無機質な視線で天井を見つめていた。
彼女は足元のそれを一瞥してから、顎に指を当てて少し考え込む仕草を見せた。そして、ひとときの静寂ののち、にわかに信じがたい言葉を放った。
「鳳くんさえ良かったら、しばらくうちに住まない?」
********************
浴室からわずかに漏れるシャワーの水温に耳を傾け、高揚した脳内の熱を冷ましてゆく。
ゴミ捨て場でずぶ濡れになった犬を拾ったら、それはつい先日別れた恋人の浮気相手の元恋人でした。そんなことが本当に起こりうるのだろうか。どうやら同じ生活圏で暮らしているようだし、浮気や不倫は意外と身近なところで起こるものだとも聞いたことがあるから、三回くらい人生を送っていたら、何万分の一かの確率で、そういったことも起こりうるのかもしれない。だとしたら私は確かめずにはいられなかった。彼の言っていることが本当なのかを。もし万が一彼が邪な動悸で適当に話を合わせていたのだとしたら、軽率な心算で他人の心情を掻き乱したことを、私は許すことができないだろう。だから私は確かめなければならない。
ソファ前のローテーブルに先日元恋人を問い詰めたときに使った書類や写真を敷き詰める作業に没頭する。もう二度とこれらを目にすることはないと思っていたのに、まさかこんなに早く再び対面するだなんて、誰が想像できただろうか。
シャワーから上がった彼を傍らに呼び寄せ、“答え合わせ”が始まった。
玄関先であの人の名前を告げたときの彼の狼狽した様子を見ていたら、最初からわかっていたことだったが、やはり私の元恋人は、彼の元恋人の浮気相手だった。冷めたカモミールティーを口に運ぶ。彼に向けて何か言葉を発したはずだが、覚えていられなかった。取り留めのない言葉だったと思う。口に出したそれは、記憶にとどまることなく、室内に充満する茶葉の香りに紛れて溶けてゆく。自分でも気分が高揚しているのがわかった。
「俺、そろそろ帰りますね」
立ち上がり、スマートフォンと丸めたネクタイをポケットに突っ込むと、彼は玄関に向かって歩き出した。見送りくらいはしようと、後を追う。ふと、彼の歩みが止まった。
「どうかしたの?」
「帰りたくないなって、思ってしまって……」
聞けば、彼は昨日の飲み会の後、自宅に帰ろうにも気が重く、気がつけば電車を乗り過ごして、今朝方鉢合わせたあのゴミ捨て場に辿り着いたのだという。部屋の中の至る所にある、元恋人の記憶を呼び起こす物のことを考えると、足が遠のいてしまうという気持ちは、わからなくもなかった。
「俺もこんな風に思い切りよく捨てられたらよかったんですけど」
そう言って彼が指差す方を目で追った。カンガルーの置物。あの人と旅先で買ったもの。いつゴミ袋に入れたのかも、これを捨てると選択したときに何を考えたのかも、今では思い出すことができなかった。彼に言われて初めて、私はどちらかと言うと“思い切りが良い”方なんだと気付く。そういえば、あの人と食事に行ったとき、何を頼むか先に決まるのはいつも私の方で、向かい側でメニュー表と睨み合う彼を待っていたら、「お前は何でも決めるのが早いよな」と少し不機嫌さを滲ませて言われたことを思い出した。
「鳳くんさえ良かったら、しばらくうちに住まない?」
自分でも馬鹿げたことをしているという自覚はあった。見ず知らずの男を家に上げるというだけでも不用心だというのに、あまつさえその男と寝食を共にするだなんて、どうかしているとしか思えない。けれども、玄関で虚空に視線を預けて立ち尽くす彼の背後のそれが目に入ってしまったのだ。開け放たれた寝室のドア、その向こうにあるクイーンサイズのベッド。窓辺から差し込む陽の光を反射するシーツの白さが、あの人がいなくなったという空虚さの質感を際立たせていた。今夜もあの場所で眠らなければならないのか。昨夜と同じように長く終わりの見えない夜を過ごすかもしれないという懸念は、畏れとなって私の頭を飲み込んだ。
その日から、私と鳳くんの奇妙な共同生活が始まった。
********************
初めて言葉を交わしたときから、不思議な人だとは思っていた。細身の体と骨ばった指先、淡い色合いの猫っ毛、控えめな目元、そして天に一直線に伸びる背筋は、儚さと力強さを絶妙なバランスで共存させていた。
「じゃあ、行ってくるね」
ヒールの踵で床を打ち鳴らす音と、彼女の柔らかな声色が共鳴りする早朝の玄関先。朝食の食器を片付ける手を止めて、俺は出勤する彼女を見送りに向かった。暖房の効いていない玄関は、冬の気配を微かに孕んだ外気が入り混じって、指先から少しずつ体温を奪ってゆく。
「今日は何時頃帰られますか?」
「20時過ぎかな。先に夕飯食べてていいからね」
「はい。いってらっしゃい」
彼女の方が通勤に時間がかかり、夜も遅くまで働いていることが多いため、大抵俺よりも早く出勤し、遅くに帰ってくる。結果的に俺は家主である彼女よりも長い時間をこの部屋で過ごすことになった。
共同生活の話を持ちかけられたとき、「何を言っているんだ、この人は」という言葉がまず初めに胸中をかすめた。驚きと猜疑心の入り混じったそれは、文字通り「何を言っているか分からない」という、言葉そのものへの理解が不能であることを意味すると同時に、「この人がどうしてそんな常識外れな要求を自分に持ちかけているのか分からない」という、相手の言動の理由に回帰した疑念も当然含まれていた。そして次にじわじわと頭の内側に滲み出してきたのは「よかった」と安堵する気持ちだった。これであの部屋に帰らなくて済む、と。結局、何故彼女が俺との共同生活を望んだのかを知ることはなかったが、お互いの利害が一致していることは明らかだったので、しばらくの間彼女の家に住まわせてもらうことになった。
彼女は多くを語らない人だった。同じ室内で寝食を共にしているというのに、俺は彼女の生い立ちも、友人関係も、何の仕事をしているかすらも知らない。けれども、彼女が何を好んでいるかは、同じ空間を共有する中で何となくわかってきた。
共同生活を始めてから三週間ほどで、この部屋は最初に足を踏み入れた頃から様変わりした。彼女は時間の合間を縫っては部屋中の至る所から、おそらく前の恋人を想起させるのであろう物を引っ張り出してきては無造作にゴミ袋に入れ、収集日になるとそれらを両手に抱え、ゴミ捨て場とアパートを何度も往復した。そして週末になると、普段の通勤着とは少し系統の違う服装でめかし込んで外出し、夕方頃に新品の紙袋を両手いっぱいに抱えて帰宅した。紙袋の中身は日によって様々だった。
美しい言語表現をすることで有名な作家たちの文庫本、変わった名前の観葉植物と、それを植えるための絶妙な色合いの鉢、アンティーク調のティーセット、繊細な装飾が目を惹くティースプーン、世界各国の茶葉の数々、四隅に切り口の揃ったタッセルが添えられた艶やかな真紅のクッション……
この部屋を彩る物のそれぞれが、違った色彩の自己主張をしているようで、部屋一帯で見ると妙な一体感があった。ぴかぴかの紙袋からその日買ってきた物を取り出して棚やテーブルに並べる彼女の表情はいつも幸福感を隠しきれていなくて、綻んだ口元と優しげな目尻の曲線に、胸の奥がざわついた。
「また何か買ってきたんですか」
「こういう趣味全開のもの、あの人がいた頃は買えなかったから」
「好きな物が明確なのって、少し羨ましいです」
俺は、最近よくわからなくなってしまって。と言うと、彼女は首を傾げた。
「十代の頃は結構はっきりしていたんですけど、今はもう、何が好きなのかと、何が自分に合っているのかがごっちゃになってしまって、好きな物を明確に答えられないんです」
彼女は、「そう」とだけ言って立ち上がると、台所で何やらごそごそと作業を始めた。しばらく経たつと、右手に今日買ったばかりのティーポット、左手に洋菓子の袋を持ってリビングに現れた。室内に漂い始めるハーバルな香りと、ダイニングテーブルに置かれた淡い色合いの洋菓子のパッケージに、思わず心が躍った。二対のティーカップにお茶を注ぎながら、口元に悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女はこう言った。
「鳳くん、このお菓子好きでしょう?」
********************
「酔っ払いを拾って家に置いてる?あんた、何考えてんの?」
「しーっ!声が大きいってば!」
鳳くんとの共同生活が始まってから一ヶ月ほど経った頃、高校時代からの親友が仕事で上京してくるというので、飲みに行くことになった。
金曜夜の居酒屋、人々の声色はどこか嬉々としていて、店内はざわめき立っていた。
向かいの席で親友は卓上の漬物を箸で転がしながらもう片方の手で前髪をかきあげ、呆れたように大きく息を吐く。
「あんたって、高校のときからちょっと変わってるっていうか、世間離れしてるところのある子だなとは思ってたけど……」
彼女は一瞬だけ天井を仰ぎ見たのち、行儀悪く頬杖をついて「まさかねえ…」と呟いた。
「それで?その、オートリくん?とは、どうなの?」
「どうって?」
「どうもこうも、若い男女が寝起きを共にしてて、何も起こらないわけないでしょ?」
何も起こらないのだ。
私だって、そこそこの年齢の成人女性である以上、それなりに異性経験も積んでいるのだから、親友が言うようなことが起こる可能性を想像しなかったわけではない。かと言って、そうなることを期待してたわけでもないが、“そういうこと”が起こったとしても、それを咎める立場にある人間はもういないのだから、正直なところどうなったって良いと思っていた。ところが、彼は共同生活が始まってから指先ひとつ私に触れようとはせず、それどころか、性欲の気配を気取らせるような空気感になったことすら一度もないのだ。
「何も、起こらないんだよねえ。わたし、女としての魅力ないのかなあ」
だから浮気されたのかな、なんて、冗談半分で言ってみた言葉をアルコールで流し込む。レモンサワーの炭酸がぱちぱちと喉奥に沁みた。
「じゃあ、あんたはどうなの?」
「どうって?」
「もう!察しが悪い!オートリくんのこと、いいなーとか思ったりしないわけ?」
好奇心に目を輝かせ、前のめりで質問を投げかける彼女には悪いのだが、私の彼に対する評価は、彼女が期待するようなそれとはひどくかけ離れていると思う。
ここ数週間で、私の部屋は様変わりした。毎週末雑貨屋や繁華街を巡って集めた心躍る物たちを眺めては、多幸感に浸ることができる反面、部屋の中に鎮座する彼の姿に、どうしても違和感を抱いてしまうのだ。自分から呼び寄せておいて勝手だとは思うが、それは嫌悪感にも近かった。それほどまでに、私の部屋と彼はミスマッチだった。雑貨屋の隅で埃を被ったティーカップを見つけたときのスキップしたくなるような浮ついた気持ちや、沢山の観葉植物の中から一つを手に取って理由もなく運命を感じてしまうような感覚を、彼に対してはまだ一度も抱いたことがないのが、その理由だと思う。
けれども、一方で彼との共同生活が自分にとって必要なものであったことを否定できない自分もいた。弱っているときや人肌恋しいときに異性の温かさを求めてしまうことがとても愚かなことであると知ってはいたが、「男の傷は別の男で癒す」という通説はあながち嘘ではないと感じている側面もあり、確かに私は彼と生活を共にしてから、あの人のことを思い出すことが格段に減った。鳳くんの存在が、あの人に身勝手に抱いていた特別感という幻想を次第に薄れさせていったことは、紛れもない事実だ。
毎夜クイーンベッドに二人で潜り込み、布一枚の境界を隔て、互いの肌が触れることがないまま眠りにつくたびに、月明かりに照らされた羽毛布団の緩やかな輪郭が寝息に合わせて上下に動くのを眺めては、そこに自分以外の誰かがいることが証明されてゆくのだ。
その日は久々にお酒を飲んだと言うこともあって、普段よりも酔いが回るのがずいぶんと早かった。店を出て親友と別れる頃には、頭がぼんやりしていて、手足と外界の境界が曖昧になるような、体がアルコールを含んだときの特有の浮遊感を感じていた。
「ただいまあ〜」
上機嫌で玄関のドアを開けると、部屋着の鳳くんがマグカップを片手にダイニングから顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ずいぶんご機嫌ですね。楽しかったですか?」
彼はローテーブルにマグカップを置くと、今度は水の入ったグラスを手にキッチンから戻ってきた。
「お水、ちゃんと飲んでくださいね」
お礼を言ってグラスの水を飲み干す。アルコールで熱った体に、ひんやりとした水の軌道が残ってゆくのが気持ち良かった。
コートや荷物を片付けてリビングに戻ると、彼はソファに腰掛けて本を読んでいた。私はカーペットにへたり込み、ローテーブルに体を預けてその様子を観察する。綺麗な顔の子だな。それはゴミ捨て場で最初に出会ったときから思っていたことだったが、こうしてまじまじと彼を眺めてみて、改めてそう思うのだ。伏せたまつ毛は室内の照明を反射して艶やかな色合いで瞼を彩っていた。本の一節一節を追う目線はいつだって真っ直ぐで、曇りがない。表情に合わせてよく動く眉毛を見ただけで、彼の読んでいる本の内容が手に取るようにわかる。少し幼さの残る顔立ちとは対極に、体つきはがっしりと逞しく、すらっと伸びた足を組む姿は優美で、やはり彼は育ちが良いんだなということを感じさせた。
同じ室内にいる彼が、自分とは異なる生き物であることを実感していくと同時に、胸の奥がざわめき立ち、これまで一度も彼に対して感じたことのない欲望が芽吹いてゆく。欲しい。鳳くんが欲しい。よくない感情だと言う自覚はあった。アルコールの熱に浮かされて他の誰かの肌の質感に触れたいと願ってしまう感覚を、私は知っていた。私だって、そこそこの年齢の成人女性だ。酔った勢いで誰かと寝た経験が無いわけではない。だからこそ知っている。この願いは一過性のもので、明日になったら消えてしまうということを。そしてそれはきっと彼を傷つけてしまう。
「どうかしましたか?」
私の視線に気づいた彼が、手元の本を膝上に伏せて尋ねた。伏せた文庫本の上に並ぶ骨ばった長い指が自分とは違う性を受けたものであることに、私は自らの欲望を抑えることができなかった。立ち上がり、彼の元へ歩み寄る。きょとんとした表情で私の一挙一動を目で追う彼が、少し愛おしかった。でも、これもきっと今だけの感情。何かを言いかけた彼の頬に手を添えて、その唇にそっとキスした。驚いた表情で固まる彼を薄目で捉え、そのまま舌を捩じ込む。
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「ただいまあ〜」
玄関先か聞こえた声は、普段より少し上擦っていて、間延びした語尾で彼女がだいぶ酔っていることがわかった。今朝、「今夜は旧友と久しぶりに飲みに行く」と言って出勤したときの彼女の口調は普段より随分と軽やかだった。きっととても仲の良い友人なのだろう。
「お水、ちゃんと飲んでくださいね」
グラスになみなみと注がれだ水を、一気に飲み干す彼女。嚥下するたびに上下する首元の皮膚の動きに、少しだけどきっとした。普段のゆったりとした一挙一動とは対照的に、欲望のままに動いていることを感じさせる所作だったからだ。彼女がコートや荷物をクローゼットにしまっている感に、二杯目の水を用意する。
ソファに腰掛けて読みかけの本に目を通していると、彼女が向かいに座ってローテーブルにしなだれ掛かってこちらをじっと見つめはじめた。本人は無意識なのだろうけれど、相当な時間そうしていた。俺の顔に何かついているのだろうか。沈黙に耐えきれず、「どうかしましたか?」と尋ねると、不意に彼女が立ち上がり、こちらに歩み寄った。何かを言いかけたが、それは彼女の唇によって塞がれた。何を言おうとしたのかは、もう覚えていない。瞬きをするのも忘れて驚いていると、薄く開いた瞼の隙間から覗く薄茶色の瞳と視線が重なった。唇の隙間から舌が捻じ込まれ、ぬるりとした生暖かく湿っぽい感覚に脳髄が刺激される。初めて異性の肌に触れたときに感じた、本能が血管を駆け巡って歯止めが効かなくなる、あの感覚。鼻を掠めるアルコールの匂いすら官能的だった。下腹部が熱く脈打っているのが自分でもわかる。早く次が欲しい。そう思って彼女の背中に回そうと腕を伸ばしたが、それを見透かしたように唇は離れていった。
見上げると、無表情な彼女がこちらを見下ろしていた。俺は女性経験が前の恋人一人きりだったので、こういうときにどうするのが正解なのかわからない。けれども、彼女が俺に対して“次”を期待していないことは、その表情から、火を見るより明らかだった。
「鳳くん、わたしね、ベッドを買おうと思うの」
しばしの沈黙の後、そう言ってスマートフォンの画面を差し出す彼女。そこには、木製のシングルベッドが映っていた。
「どうかな?」
「シンプルなデザインで、良いと思います」
翌朝、俺は荷物をまとめて彼女の家を後にした。
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鳳くんとの共同生活を解消してから、約三年の月日が流れた。彼が家を出てから約一ヶ月後、私はあの部屋を引き払って地方のある街でワンルームのアパートを借りて暮らしはじめた。仕事の都合で、都外への異動が決まったためだ。支店勤務になるが、新規事業を引導する重要なポジションだから是非行ってきてほしいという上司の言葉に、二つ返事で快諾した。
それから三年間、がむしゃらに働いた。見知らぬ土地で慣れない仕事に明け暮れる日々を重ねるうちに、結婚間際の元恋人に浮気されたことも、その後浮気相手の元恋人の男と数週間共同生活を営んだことも、随分瑣末なことのように思えてきて、次第に思い出すこともなくなった。私がこうして今過去のことを振り返り、鳳長太郎という男のことを頭の片隅に置いてみているのは、つい最近、都内に戻るよう辞令があり、前に住んでいたアパートのある街のことを思い出したからだ。あの後彼がどうなったか、今どうしているか、気にならないわけではなかったが、彼とは連絡先を交換していなかったので、知りようもなかった。そしてそんな風に一瞬胸の内に留め置いたことすら、次々と湧き上がってくる別の思考が掻き消してゆく。駅からアパートに向かう途中にある商店街の様子は変わっていないだろうか。隣に住んでいた品の良い老夫婦はまだ元気だろうか。アパートから少し歩いたところにある喫茶店は今もやっているだろうか。
休日の人でごった返す都内の駅を、真っ赤なスーツケースを引いて進む足取りは軽やかだった。おろしたてのヒールがコンクリートを打ち鳴らす音が心地良い。引越し先の新居に荷物はほとんど送ってあった。あとはこのスーツケースの中のとっておきの物たちを運び入れるだけ。人混みの流れと序列を乱さぬよう気を配りながら足を進めたが、内心はスキップしたくなるくらい胸が躍っていた。支店のあった地方の街は住みやすくて居心地も良かったが、趣味の雑貨屋巡りをするには少々不便だった。都内に戻ってきたのだから、次の休みは足が棒になるまで歩き回ってウィンドウショッピングをしようと心に決めていた。
ーー◯◯線、◯◯行き、まもなく電車が停まります。黄色の線の内側に下がってお待ちくださいーー
構内に響き渡る駅員の平坦な声色に、別のホームから流れる発車メロディが伴奏のように寄り添う。ブレーキ音を鳴り響かせて停車した電車から、人の波がどっと押し寄せた。ここ数年で、東京は随分観光客が増えたと思う。人混みを歩き慣れていない様子の観光客たちが、ホーム内の人の流れをかき乱して、電車の乗り降りを一際難しくさせていた。
「すみません、降ります、すみません……」
降車する人の列が途切れるのを見計らって車内に体を捩じ込もうと足を踏み出したところで、一つ隣のドアの方から気弱そうな男の声が聞こえた。降車列を待たずに車内に乗り込もうとする集団に飲み込まれそうになりながら、若い男が何度も頭を下げている。顔は見えなかったが、二十半ばくらいだろうか。
ーー◯◯線、◯◯行き、まもなく電車が発車します。黄色い線の内側にお下がりくださいーー
構内に響き渡る駅員の平坦な声色を、発車メロディの軽快な旋律が掻き消した。
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彼女は決して芯のある強い女性というわけではなかったと思う。見ず知らずの男を家に留め置いて、共依存的な生活を営んでしまうのだから、そういった危うさみたいなものも、確かに持っていた。けれども彼女は、自分にとって必要なものとそうでないものを直感的に分別できる人だった。その直感は、いつだって彼女を前向きにさせていた。記憶の中のあの人の背筋は、どんな場面で切り取っても天に向かって一直線に伸びていて美しかった。
あの人との共同生活が解消されたあの日から約三年の月日が経った。あの後、俺は自宅への帰路につきながら、なぜ唐突に別れを突きつけられたのか考えを巡らせたが、結局答えは分からずじまいだった。もしかしたら、明確な理由などないのかもしれないと、今となっては思うこともある。人が他人と交わったり別れたりすることそのものに、必ずしも明確な理由や動機があるわけではないのだということを、この三年間で知ってしまった。
「初めて交際した異性と、初めて体を重ね、そのまま婚姻関係を結び、一生を添い遂げる」それは、まだ若く愚かだった俺自身が抱いていた幻想。その幻想を打ち砕いたのは、紛れもなくあの人だった。あの夜、俺は元恋人以外の人間を初めて心の底から欲しいと願った。唇の隙間から捻じ込まれた舌の感覚を捉えようと蠢く自分の舌のぎこちなさに、自身の内側から湧き起こる本能的な疼きを感じた。最初は醜いもののように思えて嫌悪したそれにも、この三年間で何度かそういう場面に遭遇するうちに、自分が自分で思うほど潔白で清い身ではないことを自覚して慣れていった。
あれほど拒んでいた自宅にも、今は真っ直ぐ帰ることができる。あれから長い時間をかけて、俺は室内から例の一件を想起させるものを少しずつ消していった。無造作にできた棚や床の空白は、無くなってしまったものの現実感を突きつけるようで痛々しかったが、今ではそこに少しずつ自分で選んだ生活用品や雑貨を置くようになった。昔から好きでよく読んだ作家の文庫本、100円ショップに買い物に行った際に目に留まったサボテン、淡い水色のティーセットとマット加工のティースプーン、読書中に飲むために買い置いたティーバッグと洋菓子、藍染のクッション。大学時代の友人数人で飲みに行った後、終電を逃したという女友達を家に泊めた際、「鳳くんの部屋って、何だかちぐはぐだね」と言われたことが少し引っかかるところではあるが、今の部屋に特段不満はなかった。
ーー次は、◯◯〜、◯◯〜。右側のドアが開きます。ーー
休日だというのに電車は通勤時かと思うくらいぎゅうぎゅうに人を詰め込んでいた。通路の真ん中にたむろする観光客のスーツケースに何度もぶつかりながら、降りるドアの方向に足を進める。こういうとき、自分の要領の悪さが嫌になる。
「すみません、降ります、すみません……」
降車列に割り入って乗車しようとする人の波を掻き分けながら、やっとの思いでホームに降り立つと、ホーム内を風が吹き抜け、思わず目を瞑った。花冷えの季節は、ホーム内に薄桃色の花弁を運び込んであっという間に過ぎてゆく。再び瞼を開いたとき、視界の隅で、人混みの中に真っ赤なスーツケースを捉えた。燻んだコンクリートの駅の構内で、一際目を惹く鮮やかな赤。持ち主に視線を向ける暇も与えず、けたたましい電子音と共にドアが閉まり、スーツケースもろとも乗客の渦の中に消えていった。不意に、あの人と初めて出会った日に入れてもらったカモミールティーを思い出す。ガラス製のティーポットの中で浅葱色の茶葉が踊っていた。その傍らには背丈の違う二つのマグカップ。一つは赤いタータンチェック、もう一つは無地の薄水色。
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