「ミルクがええ?それともレモンの方が良かったか?」
そう言ってふわっと微笑む彼の左目の真横、こめかみの辺りからは白い帯状の何かが煙のように揺らめいていた。蛇口から流れる水のように次から次へと溢れ出し、端の方から消えてゆくそれ。すっかり見慣れてしまった光景。私はまるでそれが見えていないかのように振舞うことが出来た。「ミルクが良いな」と答えれば、彼の指先でティーカップがかちゃかちゃと心地良い音を立てた。きっと彼は返答を待たずとも私がミルクを選ぶことなど最初から分かっていたのだろう。その音は、私の返事を聞いてから準備したにしてはいささか早すぎるものだった。そもそも私はレモンなどの柑橘類に特有の酸味が苦手であった。手の中で湯気を立てる紅茶に目を落とすと、そこには下から覗きこむようなアングルで彼の完璧な微笑みが映し出され、紅茶の表面でぽたりと視線が重なる。そこにあの“白い帯状の何か”の姿は影も形も見当たらなかった。艶やかな琥珀色の紅茶に、真っ白なミルクで円を描く。一本の線だったそれが不規則に渦を巻いて混ざり合ってゆく様は、彼の頭から出ているものに酷く似ていた。やがてそれらはカップの中で一つの絵画となった。カップの受け皿に行儀良く添えられた華奢な作りの銀のスプーンを手に取り、ぐるぐると掻き回せば、それはあっという間に彼の髪と同じミルクティー色になった。その一連の行為は、未完成の絵画が気に入らない画家がキャンバスにナイフを入れるのに重なるような気がした。ただ一つ違うのは、私は彼の頭から伸びているそれを断ち切るナイフを持っていないということだった。
“それ”が見えるようになったのはいつだったか。つい最近のことであるような気もするが、五年以上前だと言われればそうであるような気もしてくる。学生服を着ていたことは記憶にあるので、中学生、あるいは高校生の頃だろう。当時私は学校のテニス部のマネージャーをしていた。と言っても実質仕事をしていたのは二ヶ月にも満たないくらいであるから、「そう言えばそんなことをしていた時期もあった」とかろうじて思い出すことが出来る程度である。テニスについてそれほど詳しいわけではないが、私が所属するテニス部は関西でも有数の強豪校の一つで、確か、私がマネージャーをやっていた年も全国大会に出場したはずである。さらに私は、そんな強豪テニス部の部長とお付き合いなるものも兼ねていた。誰もが私のことを羨んでいたであろう。「幸せ」を具現化したそれが、まさしく当時の私の姿そのものであった。
「好きです」と声を震わせて彼に告げたあの日のことを、今でもはっきり覚えている。「俺も」と愛しい声で彼が鳴いた。短い、けれども私が何度も夢の中で望んだ返事だった。放課後の教室、開け放たれた窓から吹き込む風が夕日の光を運んでいた。それは予め用意されていたかのような、少々出来すぎた舞台での出来事であった。お互いの頬が熱っぽく赤らんだのは、湧きあがる感情とも似つかない何かのためか、それとも並べられた机の上を滑る夕日の光のためか。今となってはどちらでも構わない、取るに足らないことであった。
それは私がマネージャーを務めてからまだ間もない頃のことだった。その日は練習試合か何かで他校に遠征に行っており、マネージャーである私も当然それに付き添った。初めて訪れる場所でまだ慣れない業務をこなす私は、少しでも早く仕事を覚えようと部員たちと同じくらい汗をかいてあちらこちらを走り回っていた。どうせ先々辞めることになるのだからそんなに頑張らなくとも良いのにと思わないわけでもないが、当然その当時私がそれを知る術など無かったのだから仕方あるまい。その努力の陰に“彼”の存在があるということも確かであった。
レギュラーメンバー全員分のボトルでいっぱいの籠を両手で抱えてよたよたと歩く私の姿は、悲惨なものであっただろう。数歩歩いては水飲み場までの道のりを確認し、頼りにならない自分の方向感覚を呪った。道中何度も他の学校の生徒にぶつかっては「すみません」と頭を下げて謝り、その度に籠からボトルが転げ落ちた。そういうところは今も昔も何ら変わらない。今でも私は、地図をぐるぐる回転させないと読めないような方向音痴で、テレビ番組の録画も一人で満足にできないくらい鈍臭いのだ。
からからと軽い音を立てて地面と転がるボトルに手を伸ばすのはこれで三度目だった。拾い上げたそれを籠に戻そうと腰を上げたそのとき、頭上から悲鳴に似た声が聞こえた。声は「あぶない!」と言っていたと思う。ああ、また人にぶつかりそうになったのか。しかし「すみません」という言葉が発せられることは二度となかった。頭や肩に殴られたような鈍い衝撃が走り、何が起こったのか分からないまま身体は勝手にバランスを崩し、アスファルトにこめかみを打ちつけたところを最後に私の意識は途切れることとなる。地面に身体を横たえるその前に、他校のユニフォームが揺れるのを見たような気がする。
目が覚めると私は病室にいた。何故それが分かったのかは言うまでもない。染み一つない白い天井、特有の薬品の匂い、慣れない羽毛布団の感触というお決まりのあれである。しかしやはり、そこが病室であることを理解するまでには多少の時間を要したし、自分が何故ここにいるのかを理解するまでには至らなかった。「ああ、目が覚めたようね」と聞き慣れない声がした。保健医だった。軋む身体を痛みに耐えながらベットから剥がそうとすれば、まだ寝ていなさいと無理矢理布団を鼻の下まですっぽりと被せられた。そのときだった、彼女の姿に微かな違和感を覚えたのは。今思えばこれが全ての始まりだった。「ちょっと待っていてね。部員さんたちを呼んでくるから」と部屋を出て行く彼女の側頭部から、紙紐のような細い何かが見えたような気がしたが、それを確かめる暇もなく、病室がばたばたと騒がしくなる。知らせを聞いてやってきた部員たちだった。彼らの姿を目にして、ぎょっとした。我が目を疑い、息を飲むと、喉が固いものを飲みこんだようにごくりと唸って少し痛いくらいだった。彼ら全員の頭の周りを、あの紐がぐるぐると渦巻いて浮遊していたのだ。
彼らの話によると、どうやら私は落ちたボトルを拾い上げたあの後、横から余所見をしながら走ってきた他校の生徒と衝突し、そのまま地面に頭を打ちつけて気絶らしい。大丈夫だとは思うけれど、一応大きな病院で検査して貰ってねと保健医に言われた。彼らの話を聞いている間、私は始終心此処にあらずという様子で、耳だけを膝の上に行儀良く並べて置いて、意識は別のところを絶えずさ迷っていた。いつまでで経っても、彼らの頭の周りを巡る紐が消えることはなく、次第にそれが見間違いでないと言う確かな感覚を得て行くことで、それを観察できるだけの冷静さも持てるようになった。そうしているうちに分かってきたことが幾つかある。まず、この紐は、私以外の者には見えていないようであった。また、一本の繋がった長い紐のように見えるそれは、よくよく見ると小さな何かの塊が連なってその形を成しており、透明な糸に通された数珠のようなものと言い替えることも出来た。その数珠の玉に当たる塊とはひとつひとつが文字であり、書体や大きさ、色などはそれぞれ異なったが、一本の滑らかな曲線として互いが終結することでことでそれ自体が一つの芸術のように独自の統一性を持っていた。文字は出てきた方、左から順に読んでゆくと文章を構成しており、そして何とも信じ難いことに、その文章とは、紐を辿っていった先にいる人間が「心の中」で考えていることであるようだった。つまり、これは人の心の中そのもので、私はそれを読み解くことが出来るということであり、より端的に言うのであれば、私は「人の心を読むことが出来るようになっていた」のである。何故こんなものが見えるようになったのか、断言することは出来ないが、おそらく頭を打ったことがきっかけなのではないだろうかと私は考えている。
「ほんま、先輩アホちゃいますか」
と、普段からこのように文句を垂れる生意気な後輩がいた。財前くんといった。彼の頭から伸びるそれは、口にした言葉とは裏腹に私を心配し、文字通り「心から」無事を按じていた。“ああ、良かった。ほんまに心配したんですよ。頑張るんはええけど、無理せんといて下さいよ。もう俺、心臓がいくつあっても足りひんわ。それにしても無事で良かった。本当に―――”
「阿呆、財前、そないなこと言うなや」
と、いつも私をフォローしてくれる同級生がいた。忍足くんといった。裏表のない性格というのが彼の良いところで、頭から出てくるそれと口から出てくる言葉とでは内容にそれほど大差はなかったが、所々に「腹が減った」「今日の晩御飯は……」などと関係の無いものが混じっていて、それもまた何だか彼らしいと感じるところであった。
部員たちが私のお見舞いを終えて病室を去った後、入れ替わるようにして彼がそこに訪れた。その姿に、私は再びぎょっとした。息を飲んだが、今後は痛いという感覚すら湧かなかった。去り際に「ああ、部長、ほなごゆっくり」と彼を茶化す部員たちの言動が信じられなかった。彼らにはあれが見えていないのだろうか。見えていないのだ。見えていないことを、私はすっかり忘れていた。私の様子がおかしいことに気付き「どないしたん」と言って歩み寄る彼の、頭の天辺から鎖骨の辺りまでを、びっしりと文字が埋め尽くしていた。顔が見えなくなるくらい、余すところなく。その光景はまるで、巣に群がる蜂の大群のようであった。他の部員たちは多くてせいぜい百文字を満たすか満たさないか程度であったのに対し、彼のその量は見て即座に分かるほど膨大で、わざわざ比べる必要などなかった。普通の人間が一度にこんなに沢山のことを考えることが出来るものなのか。おそらく出来ないであろう、あくまで“普通の”人間に限った話であるが。あまりにも数が多すぎるそれらで彼の顔は覆い隠され、その表情はほとんど見えない。見えないが、きっと怪訝そうに眉をひそめながらも、私を心配させまいと笑っているのであろう。「どないしたん」という声は少しの不安と、目一杯の優しさを含んでいた。しかし私がそれを「優しさ」として受け入れることはなかった。彼の優しさは、優しさと呼ぶには狂気を孕み過ぎていたのだ。それは彼の頭に群がる羽虫を読み解いていけば分かることで、文字であるはずの虫の二枚の羽には全て、私への行為「好き」と私を地面に叩き付けた誰かへの憎悪「憎い」の二つが書かれてた。そこに私が感じ取ったのは、恐怖そのものであり、今まで知り得ることのなかった恐怖の本質が、殻を剥いてそこにあった。練習試合に参加した学校のうちのある一校の生徒が大怪我をしたことを耳にしたのは、それから一週間後のことだった。時を同じくして、私はテニス部のマネージャを辞めた。
「どないしたん」
ティーカップをなるべく音を立てないよう静かに受け皿に置いて、彼が言った。あの一件以来、彼の顔を直接見ることは出来なくなった。彼の頭の周りにはいつだって文字がぶんぶんと飛び交って、その顔を隠してしまっているからだ。けれども私は彼の声を聞いただけでその表情を思い浮かべることが出来たし、銀のティースプーンに逆さまに映る彼の姿からもそれを見ることが出来る。あの後、人の頭から伸びるこの紐について分かったことと言えば、これは私の眼球の裏には映っても鏡や光を反射するものの表面には映らないということくらいだった。
「ちょっと、昔のことを思い出していたのよ」
「ふうん……」
大群からはぐれた「好き」という二文字が私のところまで弱々しく飛んできて、ミルクティーのなかにぽたりと吸い込まれていった。彼は今、どんな顔をしているだろうか。
120226
二周年&四万打フリリク
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