「お前が一番好きなんだ」
文句ないだろ?と、彼、跡部景吾は実に挑発的な口調で言った。表情は至って真面目なものであるから、あながち嘘でもないのだろう。しかし私は“一番”という言葉を聴き逃しはしなかった。“一番”、それはつまりは“二番”や“三番”、もしくはそれ以上がいるということで、私はそのことをとうの昔に見抜いていた。“一番”という言葉を彼が口にしたとき、その真剣な表情から口調だけがぴりぴりと剥がれるようにして浮いていたのを確かに見た。その癖彼がこんなにもあからさまに余裕を見せつけてくるのは、私が彼のことを見抜いている以上に彼が私の核心に当たる部分の何かを見抜いているためであろう。腹立たしいことではあるが、彼は自分の愚行が私に知れ渡っていることを承知の上で尚、他の女を抱いているのだ。
そもそも彼は自分に二番や三番がいることを隠そうとすらしていないようだった。私は何度か彼らの情事中に鉢合わせて一部始終を陰から見ていたことがあるが、それは私の存在に対してあまりにも無警戒で、まるで私に見せつけているとも取れるような内容だった。私はそれを目にする度、涙が出るよりも先に喉元に胃の中のものがせり上がり、便器に頭を突っ込むのであった。そこにきて初めてそ自分の下着が濡れていることに気が付き、愕然とするのだ。もしかしたら私は、彼の行為に性的な興奮を覚え彼の行為そのものを許す気になってしまったのではないだろうか、と。許すはずがなかった。許せるはずがない。こんな男、さっさと縁を切ってしまった方が良いに決まっている。そう考えられるだけ私はまだ利口であった。それが出来ないでいるのは、彼らの情事を見て、初めてのことでもないのに困惑し震える私の肩を彼が優しく抱くからである。そして彼は必ずこう言うのである。「お前が一番好きだ」と。私は彼の一番でいたかった。
彼と私のセックスは、他の者と違って私たち以外の人間の介入を許さない時と場で行われる。そして彼は他の誰よりも私を優しく抱く。そのことが、私が彼にとっての一番であるということの何よりの証拠であり、愚かしいことにそこに僅かでも幸福を得てしまう自分がいた。
窓から差し込む朝日が室内を白靄のように漂う頃、隣で寝息を立てる彼の髪に手櫛を入れながら、その幸せを確かなものにしようとする。このときばかりは、指の間をすり抜ける柔らかな髪も、絹のように滑らかな肌も、私の身体の至る所を口付けた唇も、全てが自分のものになるような気がした。彼が身をよじる度に羽根布団がかさりと乾いた音を立て、少々耳触りであったが、反して規則正しく繰り返される吸ったり吐いたりの音は心地よく耳に届いた。窓際に置いてある花瓶に行儀良く生けられた白い花の花弁が一枚、ひらりと散って朝日の中に溶けた。白靄にそれが吸い込まれるのに合わせるようにして、彼が“すう”と大きく息を吸った。
少し、肌寒い。床に落ちているカーディガンが目に入ったところで、不意に枕元の携帯電話の無機質な電子音が鳴り響き、一時の夢は現へと帰ることとなる。サブディスプレイに表示されたのはクラスメイトの男子の名前で、そういえば昨日、授業内容の確認を取ろうと電話を入れたことを思い出す。その時相手は電話に出なかったため、おそらく履歴を見て掛け直してきたのだろう。通話ボタンを押そうと親指を伸ばしかけたところで、にゅっと横から伸びてきた長い腕がそれを阻止し、わたしの手の中のそれは呆気なく取り上げられてしまった。声を上げる暇さえ与えられない短い間の出来事だった。骨張った指に摘ままれたそれは、そのままベッドサイドに置かれた水の入ったコップの中にぼとりと音を立てて沈められ、私はその一連の動作の軌道を馬鹿みたいに目で追い掛けていた。私の手は未だに虚しく携帯電話を持った形をしたままである。目の前で起きたことを全て頭で理解する頃には、いつの間に彼が目を覚ましていたのかということの方が気がかりで仕方なくなっており、視界の隅ではすっかり風景の一部と化したそれが、気泡を纏ってぶくぶくと物悲しく沈んでいくのが見えた。灰色になったディスプレイの上を滑る銀色の玉が何だか涙の様だと思ったのを最後に、再びそれが私の意識に昇ることはなかった。
「どうして……」
こんなことをするの?と言うよりも先に彼の形良い唇が私のそれを塞いだ。唇が離れる。互いの吐息に酔いしれる暇も無く、「男の名前だった」と言って彼は私をきっと睨むようにして目を細めた。目を逸らすことは許されない。先程まで触れていた髪が、肌が、唇が、まるで別物になってしまったかのような気がする。
「お前が一番好きなんだ」
文句ないだろ?と、彼は言った。実に挑発的な口調で、それでいて表情だけは嫌に真剣にさせて。私はその言葉に頷く以外の術を知らない。ベッドサイドで彼の携帯電話が震えた。サブディスプレイに表示されたのは、私の知らない女の名前だった。
111125
二周年&四万打フリリク
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