きらきら、きらきらひかる水面に目を奪われていると、ゆがんだ顔の彼と視線が重なった。ゆがんでいるのが彼の顔なのか、それともゆれる水面のせいなのかはわからなかった。プールの水は水底のペンキの色に染まり、残り少ない夏を色濃く反射して、何とも言いようのない高揚感が胸を駆け巡る。プールサイドにしゃがみこんで水をすくえば、冷たさと生ぬるさの両方が手のひらから肘へとつたって落ちた。遠くではテンポの良い音楽と若い歓声が鳴り止まない。
今日は学校の文化祭で、校舎のいたるところからざわざわと騒がしい人の声が溢れ。学校中が嬉々とした雰囲気に包まれていた。そんな非日常の喧騒から、この場所だけが切り離され、誰も何も言わない沈黙が水の跳ねる音を大きくさせていた。先程から私のすぐ後ろでもじゃもじゃ頭の彼が、何か言いたそうに落ち着きなく視線を泳がせている。沈黙を先に破ったのは彼の方だった。
「文化祭、行かねえの?」
行かなあい。何でだよ、行こーぜ。わたし、ああいう騒がしいの苦手なの。
知ってるでしょ?と言って振り向けば、納得のいったようないかないようなといった風な様子の彼が、顔を歪ませてつっ立っていた。自分でも納得のいっていない理由なのだから、彼がこういう表情をするのも仕方があるまい。
「赤也は行ってくればいいのに」
こんなところにいないで。そう言って彼に背を向けもう一度水面に視線を落とす。
「センパイが行かねんだったら、俺も行かねー」
背後からの声が近づいてくるのがわかった。私の横にぴたりと並ぶと、そこには相も変わらずしかめっ面をした彼が水の底からこちらを見つめていた。
プールサイドを風がかけ向ける。水気を帯びた空気のひやりとした感触が、残暑に汗ばむ肌の上をなめらかに滑った。小さなさざ波がいくつも立って、水面に写っていた景色をあっという間にかき消した。彼が今どんな顔をしているのかはわからない。
「丸井先輩に振られたから、文化祭には行きたくねーですって素直に言えばいいのに」
「うるせー。振られてないし」
「同じようなモンでしょ」
私は丸井に振られてなどいない。それどころか、何もできないままおちおちしているうちに、丸井は他の人のところへ行ってしまった。告白する勇気すら私にはなかった。クラスメイトたちは二人を祝福し、はやし立て、その雰囲気が最高潮のまま文化祭のシーズンに入った。人知れず心に傷を負った私は、ばたばたと周りが騒がしくなるのに流されるようにして時を過ごし、傷心する暇も与えられなかった。迎えた文化祭当日、胸にぽっかり穴が空いたような気持ちを抱えて人ごみの中にいるうちに、何だか周囲から取り残されたような居心地の悪さにいたたまれなくなり、人のいない場所を求めて逃げるようにここへたどり着いた。
告白もしていないのだから、惨めといっても誰にも共感してもらえまい。私は伝えきれなかった丸井への気持ちと、やり場のない自分への憤りにどうしようもなく足掻きながら、所詮時間が解決してくれるのを待つしかないのだ。
鼻をすすると塩酸のにおいが鼻腔を突いて、思わず眉をひそめた。
「告白もしていないのだから、惨めといっても誰にも共感してもらえないのよ」
思ったことがそのまま口に出た。すると、
「あーもう、辛気臭えな」
不意に投げやりな声が聞こえて、返事をする暇もなく私の視界は一変した。背中にどんっと衝撃が走るやいなや、目の前に先程まで見ていた水色が広がり、がぼがぼと何かが唸るような音で耳がいっぱいに溢れた。体中が冷たいものに包まれ、「息を吸わなければ」と重たい手足をばたつかせたところで、ようやく自分が水の中に落とされたことに気づく。
頭上から「俺もー!」という声が聞こえ、ばしゃんと耳をつんざく音と、真っ白な水しぶきとともに、赤也が私の隣に飛び込んだ。「冷てえ!!」と叫び、何故だか嬉しそうに顔をほころばせる彼を、私はずぶ濡れになりながら呆気に取られて見ているしかなかった。彼がブンブンと頭を振るので、水しぶきがびちゃびちゃと顔に当たり、冷たさに思わず我に帰った。
「バッカじゃないの!?」
「いーじゃん、誰も見てねんだし」
そういう問題じゃない!と言いかけたところで、再び目の前が真っ白になる。赤也がざぶざぶと水をこちらにかけていた。口の中に大量の水が入り、悪態はプールの水と一緒に飲み込むしかなくなった。
バカ赤也!!と叫んで胸元の水をかき集めて赤也の脳天から降り注がせる。やったな!?という声と共に、再び私の視界は真っ白になった。顔に水がかかる感触が少し痛いくらいで、耳元を水しぶきが舞う音が駆け抜けていった。そうやって、子どもに戻ったみたいに無邪気に水を掛け合った。きゃあきゃあ叫ぶ高い声がプールサイドに反響し、外の喧騒から切り離されていく。
どのくらいそうしていただろうか。気がつけば二人とも頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになって、水に浸かっていた。ふと我に返って校舎の方を省みる。音楽の音がより一層大きく激しく鳴り響いて、私の脳天を打ちつけた。胸の下から喉元へと熱いものがこみ上げてきて、思わず何かを打ち消すように水をすくってばしゃばしゃと顔にかけると、冷たさの中に熱い何かが混じった。ぼろぼろと、水だか涙だかわからないものが頬を伝って止まらない。
嗚咽が漏れそうになり少し開いた唇を、やわらかい何かがふさいだ。見れば赤也の顔が目の前にあり、涙の向こうで視線がぶつかった。状況を飲み込めず、拒む暇すら与えられずに赤也の腕が後頭部に回る。唇を伝う水の感触が、触れたところから暖かくなってゆく。息ができない。
「おれじゃ、だめなんですか」
息がかかりそうなほど近くで、彼がそういった。
物音ひとつしないプールサイドで、ふたつの陰がゆらいだ。遠くでは、テンポの良い音楽と若い歓声が鳴り止まない。
180907
二周年&四万打フリリク
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