top of page

月曜日の怪物

「月曜日は人を殺したくなる」と人は言った。駅のホームで、雑踏の中の一人ひとりをうつろな目で流し見していると、そんな鈍い殺気が胸を支配する。

「月曜日は自分を殺めたくなる」と人は言った。黄色い線の内側できっちりと揃えられた自分のローファーのつま先を見ていると、そんな憂鬱に飲まれる。


そういう気分になるのに理由がないわけではなかった。むしろ、理由は沢山見つかった。模試の結果が悪く、担任に志望校を変えるように告げられた。部活で記録が思うように伸びず、レギュラーを外された。両親が弟の中学受験に付きっ切りで、家に帰っても自分の居場所がない。友達との関係は悪くなかったが、良いわけでもなく、最近中身のない会話ばかりしているような気がしてならない。薄っぺらい。薄っぺらい自分の愛想笑いが、気持ち悪い。私は特に容姿が整っているわけでもなければ、性格がものすごく良いというわけでもない。むしろ自分の顔は嫌いだった。性格はもっと嫌いだ。とりえなんてひとつもない。朝から学校に行く気も起きず、考えても仕方のないことに思いをめぐらせている自分の辛気臭さが嫌いだ。まるで自分がこの世で一番の不幸者で、この先もずっとその不幸にとらわれて生きていかなければならないような気がして、根拠のない不安がぎゅうぎゅうと胸を締め付ける。自分のことをこの世で一番の不幸者だと思うようなうぬぼれた精神。その傲慢さが嫌いで仕方がなかった。


月曜日は決まってこういう気持ちが特に強くなる。自分を否定して、否定して、押し殺さなければ、この足は電車に乗り込む第一歩を踏むことを拒んでしまう。休み明けだからとか、週はじめだからとか、世の中の人がそうするように二言三言の理由をつけるだけで割り切れたらどんなに良いことか。私はその術を知らない。知らない私は、今日も自分を押し殺して、殺して、無くして、電車に乗るための準備をする。車輪のきしむ音が聞こえる。カーブを曲がった鉄の塊が、車体を斜めに傾かせてこちらに向かっているのを見ていたら、ここに飛び込んでしまおうかという考えが頭をよぎった。これで何度目になるか。電車の窓ガラスに反射して映る自分の顔を見て、ほんとうに醜い形をしていると思った。


無機質な音と共に電車のドアが開くと、そこには見慣れた銀髪が人ごみの中で揺れていた。仁王だ。私はこの男の姿を見ると、どういうわけか少しだけほっとする。同じ学校でテニス部であるということ以外何も知らないが、彼を見ているときだけ、自分が不幸であるという思考の呪縛から解き放たれるような気がした。だから、電車に乗るといつも彼の姿を無意識のうちに探してしまう。気だるげな顔が並ぶ雑踏の中で、彼は一際生気を失っていた。車体の傾きに合わせてあっちへふらふらこっちへふらふらと体を揺らしながら、虚ろな目で窓の外の景色を眺める姿は、どこか頼りなくて、目を話した隙に人ごみの中にまぎれて見失ってしまいそうになる。背を丸め、くたびれたローファーをパタパタと鳴らしながら電車に揺られる彼は、いつも無表情だった。車窓から差し込む日の光が、銀色の髪の上できらり、きらりと踊った。どこを見ているかわからない視線の行く末を、まばたきをするたびに探ってしまう。この時間だけが、私を月曜日の憂鬱から解放してくれる。そうこうしているうちに降りる駅に横着し、人の波に背中を押されるようにして外の世界に吐き出された。私は中学三年間の通学時間を、毎日彼を遠くから眺めて過ごした。


10年経った今も、私は月曜日になると人を殺したくなったし、自らを殺めたかった。黄色い線の内側できっちりと揃えられたパンプスのつま先は、少しくたびれていたが、この足が後もう一歩前に出たらと思うことが度々あることに変わりはなかった。10年経った今も、私は変わらず不幸だった。結局志望校は変えざるを得なかったし、部活はレギュラーを降ろされたまま最後の大会を迎えた。弟は受験に成功して、私は彼に対する劣等感を抱えたまま10年を過ごすことになる。友達とは、良くも悪くもそれなりの関係を築けたと思うが、卒業してから会うことは一度もなかった。顔も性格も10年月日が経ったところでそう易々と変わるものではない。就職にはおそらく失敗した。私はあと一週間も経たないうちに、今の会社を辞めるだろう。電車の窓ガラスに映る自分の姿を見て、アイロンの行き届かなかった襟元が曲がっていることより、自分の顔の形が気に食わないことの方が目に付いて仕方がなかった。

そして10年経った今、月曜日の憂鬱を忘れさせてくれる彼はもうそこにはいなかった。元々彼とはほとんどかかわりがなかったので、彼がどこの高校に進学し、今どこで何をしているのかを知る術はなかったし、話したこともない相手の未来を詮索するほど私も暇ではなかった。進学、就職し、あわただしい日々を送るうちに次第に彼の記憶は薄れ、月曜日の憂鬱だけが毎週変わらず私を苦しめた。


とある月曜日のことだった。いつものように駅のホームで自分を押し殺して電車に乗り込むと、見覚えのある銀髪が目に入った。突如、心臓がどくんと跳ね上がり、背筋を熱い何かが駆け上った。何かを期待して、人ごみの隙間からその顔を覗き見ようと体を揺らす。仁王だった。10年という月日が彼の顔つきを大人びたものにさせていたが、間違えるはずがない。スーツを着て、ネクタイを締めた仁王が、そこにいた。そこにいるのが仁王であると認識した瞬間から、先ほどまでの鬱々とした気分も忘れて、私の胸を言いようのない高揚感が駆け巡った。仁王がいる。三年間見続けた彼が、何の前触れもなく私の目の前に再び現れた。何を期待するわけでもないが、ただそこにいるというだけで私は月曜日の呪縛から解き放たれることができた。不意に、彼の名前を呼んでみたくなった。私と彼は中学時代ほとんど接点などなかったというのに、10年の月日が私を少しばかり大胆にさせた。


「仁王?」


語尾を上げたのは、仁王だという確証が得られていないからではなく、彼が私を認識していないのではないかという自信のなさがあったからだ。すると彼は、私の顔を見るなり何かに気が付いたように瞳をまん丸にさせて、少ししてから私の名前を呼んだではないか。驚くべきことに、彼は私のことを認識しており、そして今も覚えていた。ブレーキ音が車内に鳴り響き、ドアが開くと、人がどっと車内に押し寄せた。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、私はいつの間にか仁王の目の前まで来ていた。つり革につかまった彼が私を見下ろす。


「久しぶりじゃのう」


「私のこと、知ってたの?」


「そりゃあお前さん・・・・・・」


毎朝毎朝あんなに見つめられたら、気づかん方がおかしいぜよ。そういって彼は照れくさそうに笑った。だが、照れたいのは私の方だった。仁王は気づいていたのだ。私が毎朝彼を見ていたことに。10年経ち、当たり前だが彼は大人になっていた。元々整った顔立ちをしていて女子にも人気のあった彼だが、その顔は鋭さに磨きがかかり、男らしくもあった。長い手足は、紺色の縦ストライプのスーツをきっちりと着こなしていた。ぴかぴかの革靴が私の方につま先を揃えて、大人になったことを誇示しているようである。

車体の傾きに合わせてあっちへふらふらこっちへふらふらと体を揺らしながら、虚ろな目で窓の外の景色を眺める姿は、相変わらず頼りなかったが、仁王は確かにそこにいた。もうまばたきをしたら彼を見失ってしまうんじゃないかと心配する必要はない。触れるか触れないかくらいのところで、仁王が息をしている。こういうとき何を話したら良いのか、私はわからなかった。「久しぶり」という月並みな挨拶は先ほど終わらせてしまった。「元気だった?」と聞けるほど、私と仁王に関わりはない。沈黙が続いた。車体が揺れるのに合わせて、私の思考もあっちへふらふらこっちへふらふらと揺れる。気まずい空気を察したのか、彼も黙って車窓の外に視線を向けたままである。何かを話したいという気持ちが喉元まで競り上がるが、言葉が出てこない。そうこうしているうちに次の駅に到着し、仁王の体が私から離れた。ここで降りるのだということを察する。結局何も話すことができなかったと落胆に暮れていると、去り際に仁王が私の肩を叩いた。


「またな」


そう言って軽く手を挙げた。つられて私も小さく右手を挙げる。


「うん、またね」


雑踏の中にまぎれて小さくなってゆく彼の後姿を眺めながら、挙げたままの右手から力が抜けてゆく。指先に血液が行き渡り、内側から熱っぽさがじわりと私の体を支配していくのを感じた。


どくん、どくん


彼の姿が見えなくなった後も、その音は鳴り止まなかった。この胸の高鳴りを、私は知っている。



190220

二周年&四万打フリリク

Comments


bottom of page