メロウステップ
- echo0607
- 2022年7月3日
- 読了時間: 10分
更新日:2024年7月21日
「私たち、入籍しました」
飲み会も終盤に差し掛かった頃、二つの顔が、会場の真ん中で喜びを弾けさせていた。十数名による一斉の拍手が二人を祝福した。
「おめでとう」
「いいなあ」
「まさかお前が結婚するとはなぁ」
「いつ入籍したの?」
「式は?」
祝いの言葉を述べる者、羨む者、はやし立てる者、ただでさえ騒がしい会場内に、様々な言葉や感情が飛び交う。
その様子を、私は少し離れたところで他人事のように振舞いながら、息を潜めて眺めていた。
実際、“私たち”のことを知らない者から見れば、私にとって彼らの結婚は他人事であることに違いはないのであるが、そうとは言い切れない事情が、この息苦しさの正体であった。「入籍」という単語が耳に触れた瞬間の、胸を内側から突き上げられるような疼痛を、私はまだ忘れることができない
「あの二人結婚したんだね」「ねー」「仁王君、結婚なんて興味ない人だと思ってたから、ちょっと意外」と、隣の友人と、おそらく他のテーブルでも同様に繰り広げられているであろう内容の会話をしながら、見えない引っ掻き傷をなぞるように何度も反芻した。
仁王、結婚したんだ。あの子と。
“あの子”のことは、よく知らない。5年ほど前、大学時代に同じサークルで何度か会話をしたことがあるだけ。「大人しそうな子だな」という印象を持った記憶があるから、今日、こんな風に入籍発表をしたのは少し意外だった。
仁王と私は、大学時代に半同棲状態にあった。
ただ、「週に何度会う」とか「相手の家に私物を置きっぱなしにしている」とか、起きていることそのままをなぞる言葉は尽きなかったが、そこにある私たちの関係性には、特別な意味を見出す言葉が与えられていたわけではなかった。
“そういう関係”になったのがいつからだったか、はっきりとした時期は覚えていない。ただ、サークルの飲み会で潰れた仁王を、友人と担いで彼の自宅まで送ったとき、帰り際に袖を引っ張られた。
「お酒弱いんだから、無理しないでよ」と憎まれ口を叩きながらも、本当は袖を引かれたとき、淡い喜びと浮ついた感覚が胸を通ったのだ。ベッドを私に譲って自分はソファで横になると言って退かない彼から、身勝手に“優しさ”を掬い上げて、ソファで背中を丸める彼を薄目で眺めて「猫みたいだ」だなんて“愛おしさ”を頬に滲ませた。
その日から、私は仁王の家に足を運ぶことが増え、いつしか一つのベッドで身を寄せて眠るようになり、いつしか仁王の家から学校に通い、そしてまた彼の家に帰るようになった。
12月も半ばに差し掛かった頃だったか。衣擦れの音と、背骨に当たる自分でない者の骨ばった感触で目を覚ました。傍らには、気持ちよさそうに寝息を立てる彼。何度も見た景色だった。少し腕を伸ばして、窓ガラスについた結露を指ですくって仁王の瞼に乗せた。自分でも何故そんなことをしたのかわからない。室内に朝日が差し込む。瞼の上で小さな結晶をいくつも作るそれを、アイシャドウを伸ばすように指でなぞった。冷たそうに眉をしかめて掠れた声を漏らす彼。
「ふふ、猫みたい」
仁王はあまり人と深くかかわるタイプではなかった。友人はそれなりにいるようだったが、彼らの前にはいつも見えない壁のようなものが敷かれているような気がした。そんな彼だからこそ、私は仁王としてきたことひとつひとつに、宝物にしたくなるような理由を見出そうとした。
こんなに近くにいるのは、きっと私だけ。
私くらいしか、仁王のことをわかっていないはず。
仁王とは、何も家に入り浸っているだけというわけではなかった。
学生だったため贅沢なことはできなかったが、それでも水族館や遊園地、夜景が見える丘の上の公園なんかにも行ったりした。けれども、私たちはその行為にふさわしい関係性になることを求めなかった。いや、正確には、彼の方がそれを求めなかった。私は、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。5年後、彼の入籍報告を聞いたときの、あの感覚が答えなのだと思う。
一度だけ、彼の核心に迫ろうと試みたことがある。
今となっては、何故そんなことをしようと思ったのか、それをすることで彼の胸中の何に触れようとしたのか、筋道を立てて説明することもできないのだが、逆に言えばそれくらい思い詰めていたのかもしれない。
ある日、彼の家に置きっぱなしにしてある自分の歯ブラシを持ち帰った。彼の視界に入るところで、それを鞄に仕舞ってみせた。少しわざとらしいくらいだったかもしれない。ソファでテレビのリモコンを弄っていた彼は、その様子を一瞥すると、「今度替えのブラシを買っておく」とだけ言って画面に視線を戻した。歯ブラシは先週替えたばかりのものだったが、私はそのことを指摘できなかった。
彼の日常から私の一部が消えることで、失うことへの恐れが芽生えてほしいと望んだ。僅かでも、自分の行為の理由について考えを巡らせてくれたらいいと期待していた。せめて、「どうせ明日も来るんだから置いていったらいい」とでも言ってくれたらよかったのに。
「ここ、私の家じゃないし」「ほかに必要になるかもしれないし」返す言葉はいくつも考えていたけれど、どれにするかは決まらないままだった。結局、用意していたそれらが私の口から発せられることはなかった。
たぶん、仁王は全部わかっていたのだと思う。
「久しぶりじゃのう。元気にしとったか?」
グラスを片手に持った仁王が、私の隣に腰かけた。
新婚二人で、飲み会会場のテーブルをひとつひとつ回っているようで、その様子はさながら結婚式の披露宴で行うキャンドルサービスのようだった。奥さんの方は、同じテーブルの少し離れた席で、私の友達と昔話に花を咲かせていた。どうやら、二人は大学時代同じ学科で仲が良かったらしい。
「うん、それなりに。仁王は?って、聞くまでもないか。おめでとう。」
仁王は「うん」とだけ言い、持っていたグラスに口をつけた。
奥さんと付き合うようになったいきさつやプロポーズのシチュエーションなど、他の女友達が口々に質問を投げかけ始める。彼は、へらへら笑ってそれらをうまくかわしたり、時折真面目に答えたりしていた。たびたび酔っぱらっているような仕草をみせてはいたが、こうやって話題を選んで受け答えをしているところを見ると、酔っているふりをしているのだろう。
正直なところ、話の内容には全く興味がない、というか、聞きたくないという気持ちが半分以上を占めていたが、偶然なのか、私が聞きたくないと思った話題は、深く掘り下げられないまま次の話題に移っていた。
ちびちびとお酒を飲みながら、興味津々というポーズはあくまで崩さずに会話に入っていると、不意に、右手に柔らかく温かい感触がした。何が起こっているのか、頭が追いつく前に、テーブルの下で手を握られた。とっさに、仁王の方を見る。彼はこちらを見てはいなかった。女友達との会話を続けながら、グラスに口をつける振りをして、私に見えている方の口角だけを僅かに上げた。グラスをテーブルにおろす刹那、伏せた睫毛の間から琥珀色の瞳がこちらを覗いていた。
ここではじめて、私は自分が聞きたくないと思った話題が深く掘り下げられないことが、偶然ではなく、彼の計らいであることを察した。握られた右手の体温が上がる。触れているところから溶けてしまいそうになる。
一次会が終わり、幹事が会計を済ませている間、店の出入り口で各々仲の良い人とたむろしていると、誰かが二次会の参加者を募りはじめた。二次会に行くつもりはなかったので、幹事が戻ってくるまでの間、少し離れたところにある喫煙所のベンチに腰掛け、その様子を眺めた。仁王の奥さんは、明日の出勤が早いとかで、何人かに挨拶をして早々に駅に向かっていった。
鞄の取っ手をぎゅっと握り、ボブカットの毛先をふわふわ揺らして小走りで駅に向かう後ろ姿が、なんだかとてつもなく尊いもののように思えた。
仁王には学生時代、好きな人がいた。
二つ上の大学の先輩。とても綺麗な人で、二つ下の学年の私たちの間でも有名だった。先輩と仁王がいつどこで知り合ったのか、接点らしきものに全く思い当たりはなかったが、あまり他人と深くかかわらない仁王が、先輩のことになると饒舌になり、自分や相手の内面に触れるような言葉をしばしば発していた。先輩が仁王にとって、他とはひときわ異なる存在であることは、わかりやすいくらいだった。
彼と半同棲状態に向かいつつある最中、私はそのことに薄々感づいていた。
8月も半ばに差し掛かり、うだるような暑さが続く頃だったと思う。エアコンのよく効いたワンルームの室内、ガラステーブルの卓上に、仁王が飲み干したビールの空き缶と、桃のリキュール瓶、私のお気に入りのロックグラスが並んでいた。BGM代わりに液晶に映した昔の洋画が、仄暗い室内を照らし、彼の顔に落とした影を色濃くさせた。
グラスの中の氷をからからと指で回して溶かし、下の方にたまった甘いリキュールと一緒に喉に流し込んだ。水の量が足りなかったようで、えぐみにも似た甘さが喉の奥いっぱいに広がり、アルコールが鼻に抜けた。堪らず舌をべっと出して息を吐いた。そんな私の様子を見て、仁王はふっと笑い、私の耳の後ろに手を回して顔を近づけてきた。あ、今の仕草、かわいいと思ってもらえたのかな、なんて、嬉々として目を瞑り唇が触れるのを待ったが、スマホの通知音がそれを制止した。自分の肌から彼の温かさが離れてゆくのを拒むことはできなかった。見ると、仁王はスマホを手に、私の前では一度も見せたことのない表情で画面をなぞっていた。
「先輩からじゃ」
やっぱり。
彼の背中に回そうとして行き場を失った腕が宙を掻いた。リキュールの後味の苦さに顔をしかめた。
幹事が居酒屋から出てくるのを待ちながら、喫煙所のベンチで昔のことを思い出していると、どこからともなく仁王がやってきて、私の隣に腰かけた。
「お疲れさん」
「煙草、吸ってたっけ?」
「いや、吸わんよ。涼みにきた」
「涼みにきた」だなんて、見え透いた嘘だ。今は真冬で、寒さに弱い仁王は、たとえお酒が入って体温が上がっても、いつだって「寒い寒い」とコートのポケットに両手を突っ込んでいた。
そう。とだけ言って、少し距離を取って座りなおした。
周囲が私たちに気が付いて、変な誤解を招いても困る。少なくとも今は仁王とは何もやましい関係はないのだ。
人差し指のネイルが剥げてるな、とか、靴のつま先が擦り切れてるな、とか、自分の視界に映り込むものに思考を巡らせながら、とりとめもない会話をした。
「奥さん、先に帰ったよ」
「知っとる。明日早いんじゃと」
「一緒に住んでるんじゃないの?」
「いや、二週間後に引っ越しじゃ」
そう言うと彼は立ち上がり、私の方に僅かに顔を向けてにやっと笑い、コートのポケットから出した左手でわざとらしく夜風を掬った。先ほどテーブルの下でこっそり手をつながれた理由と、目の前の彼の言動が頭の中で結びつき、この男の言わんとすることを察した。つまるところ、今、家には自分ひとりであるから、これから来ないか、と言いたいのだ。こういうことをすぐに察することができるようになってしまうくらいに、私と彼が過ごした時間はあまりにも長すぎた。愕然とした。学生時代、私が手放すまいと執着した彼との時間は、こんなことしか生み出せなかったのか、と。ため息が出る。アルコールを孕んだ息は、一瞬だけ白く靄を作り、すぐに夜闇に飲み込まれて消えた。
それでも私は、また、彼の手を掴んでしまうのだ。
最初に彼が私の袖を引っ張ったときのように。
気が付けば、居酒屋を後にし、夜の繁華街を仁王の後ろをついて歩いていた。
仁王の横顔の上で街のネオンサインが踊っている。彼はこちらに合わせることなく、自分の歩幅でどんどん進んでいってしまう。小走りで彼の後をついて歩いたが、その足は雲の上を歩いているかのように不確かな感触で地面をとらえ、私を夢見心地な気分にさせた。学生時代も、よくこうやって彼の後をついて回った。銀色の髪がピンクや黄色の光を孕んで揺れる様子が、なんだかユニコーンのたてがみのようで、私と彼の周辺だけが現実世界から切り離されたような、熱を帯びた感覚におぼれた。行き交う人々の話し声も、ちかちかと眩い街の灯も、彼のつけている香水の匂いでさえも、靄の中で感じているようにおぼろげで、朦朧として、いよいよ自意識を頼りなくしていった。
先輩だったら、あの子だったら、仁王は歩幅を合わせて一緒に歩くのだろうか。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。妙に現実味を帯びたどろっとした感覚が胸の中に入り込むのを遮るように、彼の名を呼ぶ。
「待ってよ、仁王」
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