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まっすぐな鏡

  • echo0607
  • 2022年6月19日
  • 読了時間: 6分

バイトを終えて自宅のアパートに着くと、寝室のベットに一人の男が寝転がっていたので、私は黙って静かにドアを閉めた。私のした行動は何ら間違っていないはずである。まるでそうすることが当たり前というように無機質な動きで、ぱたりとドアを閉めた。はて、今のは一体全体何だったのだろう。二、三秒か、それとも十数秒か、しばしの間思案してから、再び部屋を見渡したときにはそこには誰もいなくて、ああ何だ、私の見間違いだったか、と胸を撫で下ろすことを期待して今一度ドアを開ける。そこには、やはりと言うか、驚くべきことにと言うか、佐伯がいた。

ベッドの傍らのガラステーブルには、私が今夜帰宅したら食べようと大事に取っておいたプリンが、もちろん中身は空というお約束付きで置かれている。彼はというと、すらりと長い脚を布団の端まででんと伸ばし、ごろりとベッドに寝そべり、これまた私が昨日買って今夜読もうと封を切らないでおいたファッション誌の最新刊のページを、ごく自然な動きでぱらぱらと捲っていた。数秒の沈黙の後、彼は、まるで私がここに来たことに今初めて気付いたというような素振りで「あ、おかえり」などと言うものだから、私の背中の後ろで作られた拳は行き場を失ってしまった。


「ただいま、じゃなくてプリン!」


「あ、勝手に貰っちゃった」


もっと他に言うべき言葉は山ほどあるはずなのに、その量の多さに何が何やらわけが分からなくなり、思わず口にした単語が「プリン」であったことに、我ながら呆れてしまう。ごめんね、食べたかった?でもお腹すいて待ちくたびれちゃいそうだったからさ。今度同じもの買ってくるから、許してよ、ね?と話す彼を遮って、「そうじゃなくて」と半ば叫ぶように言う。


「そうじゃなくて、何で佐伯がここにいるの?鍵は?どうやって入ったの?やだ、ストーカー?というか、何しに来たの?」


「いやいや、落ち着いてよ」


君もこういうの読むんだね、と言って、手元の雑誌の「モテフェミニンワンピ」という横文字をわざわざご丁寧に選び指さす彼をじとりと睨んで、説明を求める視線を送ると、彼は諦めたように溜息をついて苦笑した。

ここの向かいに住んでる君んちの大家さん?そうそう、あの人の良さそうなおじさん、あの人に「彼氏です」って言ったら、これ、くれたんだよ。そう話す佐伯の掌には、青いプレートの付いたスペアキーが乗っかっていた。プレートに書かれていたのは、私の部屋の部屋番号。余談だが、私の持っている鍵には赤いプレートが付いている。

君と一緒にいるときに何度か会ってたみたいだね。俺は全く覚えてないけど。これからも仲良くやっていきなさいって言われちゃったよ。俺達ってそんな風に見えてたのかな。それにしても、今どき珍しい人がいたもんだね。不用心にも程があるよ。言いながら笑う彼の話を聞いていたら、呆れたというか、拍子抜けしてしまったというか、とにかく「はあ」とか「へえ」とかいう言葉以外に声が発せなくなっていた。ああもうどうにでもなれ。

カーペットの上に荷物をどさりと投げ出し、皺にならないようにコートを丁重にハンガーに掛けて、結っていた髪を解いた。お、こっちの方が似合うねえ、という声が上がったが、適当に流す。この際、化粧も一緒に落としてしまおうかとも思ったが、それは流石にやり過ぎだろうということで、やめることにした。私にだって一応は恥じらいというものがある。

私の一連の動作を黙って眺めていた彼に、お茶でも入れてそれなりに客人扱いしてやろうと「コーヒーが良い?それとも紅茶?」と尋ねる。返事が返ってくるかこないかくらいの頃合いを見計らってキッチンへ向かおうと踵を返したところで、「ねえ」と声が掛かった。


「どうして、」


どうして俺の目を見てくれないの?と、彼は言った。私はほとんど反射的に「え?」と聞き返す。少し遅れて、触れて欲しくないところを突かれてしまった息苦しさを感じる。こめかみの辺りに、嫌な予感がするとき独特のあのヒヤリとした感覚が走った。彼は、むくりと上半身を起こし、立ち上がった。


「君が部屋に入ってきてからしばらく経つけど、君は一度も俺と目を合わせようとしてくれないじゃないか。今日に限った話じゃないよ。君はいつだって俺の目を見てくれない。ねえ、それはどうして?」


ぽつりぽつりと言いながら私の方へと近付いてくる彼の姿は、その端正な顔つきのせいもあってか、少しばかり狂気染みているような気がした。そんな風に感じてしまうのは、私が一方的に追い込まれているような気分に浸っているからであって、彼自身は全くそんなつもりでなく、いたって普通の精神状態であることは、随分前から分かっている。彼と一緒にいて、こういう状況に陥るのは一度や二度なんてものじゃなく、よくあることで、ただ今日は帰宅したら予期しない形で彼が私の部屋にいたから、ちょっと拍子抜けしてしまったたけじゃないか、とも思った。

ゆっくりと歩み寄る彼の歩調に合わせるようにして、私はじりじりと後ずさる。また、だ。また私は逃げようとしている。それを見透かしたように「逃げられないよ」と彼は言った。だってここは君の家だろ?とも言った。ああそうか、ここにきてようやく私は彼の行動の意図を悟るのであった。ここは私の逃げ込む場所であり、帰るべき場所でもあるのだ。


何度も言うようだが、彼の精神状態はいたって正常である。この状況でそれを言うのは少々無理があることくらい重々承知しているが、敢えて言うならば、彼は純粋に私に好意を抱いていた。だが、その純粋さ故に私は彼の行為を受け入れることが出来ない。そう、全ては私の責任なのである。今、きっと彼はまっすぐに私を見ている。しかし、私の視線の先には、フローリングの床と少し伝線したストッキングに包まれた冷えた指先があるだけで、そこに彼の姿は無かった。私は、顔を上げることが出来ない。

佐伯はいつだって私をまっすぐに見る。まっすぐな視線の先には私がいて、彼と目を合わせればその琥珀色に映るものはそっくりそのまま私の目にも飛び込んでくるということであり、それは私の汚いところも、狡いところも、全部を含んでいた。

友人たちにはにこにこ笑って平等に振舞っているが、胸の内では差別までいかないにしろ区別しているし、今日だってバイトで店長に怒られ「はい、分かりました」と口先だけで言っておきながら、店の裏でゴミ箱を蹴った。純情ぶっているだけで、実際のところ異性交際の方は平均よりずっと数こなしていて、寝た男は片手では数えきれない。「子ども好きそうだね」とよく言われるが、正直子どもなんてうるさいだけで、今週末に小学生の甥っ子の面倒を見るために実家に帰るのが億劫で仕方ないくらいだ。

彼の目を見て、少しでも考え事を深めれば、そういった自分のぼろが出ていく様子を眺めているような気分になる。澄んだ鏡は持ち主の美しいところをきめ細やかに見せるが、同時に皺や染みなど醜いところも映し出すとはまさしくこのことであり、彼の瞳は私の見たくない部分までもを丸裸にして見せているようで、とてもじゃないが見ていられなかった。こんなに私のことをまっすぐに見てくれる人がいるというのに、その視線の先に、こんなにぐちゃぐちゃで醜く、はしたない私がいることを思うと、どうしようもなく泣きたくなるのだ。私はただ、汚い自分から精一杯目を逸らしたいのかもしれない。


「ねえ、俺の目を見て?」


そこには、何が映る?



110222

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