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不死鳥がわらった

「しーっ、俺ときみだけの、ひみつだよ」


満開の桜の木の下で、彼は静かにそう言った。 佐伯くんが男の子のことを好いていると知ったのは、ちょうど三日前のことだった。まだ冬の気配の消えないその日、校舎裏で隣のクラスのある男とその交際相手と思しき女子がキスしているところに、わたしと佐伯くんは鉢合わせてしまった。肌の表面の体温だけを奪ってゆくような少しつめたい風が吹き込む校舎裏で、二人の男女は幸せというあたたかな空気に包まれて互いのくちびるをついばんでいた。男の名前は何といったか、思い出せなかったが、私のクラスに出入りしているところを何度か見かけたことがあったので、顔には見覚えがあった。あまり愛想は良い方ではなくて、少し怖いひとのようにも思えたその男だが、そんな彼が彼女の前ではやさしく瞼を閉じて桃色に染めた頬をほころばせているのがとても印象的だった。


「ちょっとまずいところに来ちゃったみたいね」と、立ち去ろうと促したときだった。傍らの彼をふと見上げて、わたしはその表情にこころを奪われた。彼の目と口元は、それぞれが指す意味が全く異なっていた。愛おしいものを見るようなやさしく儚げな眼差しと裏腹に、その唇は哀しみが今にも溢れ出しそうなのを押し留めてきゅっときつく結ばれていた。目一杯のやさしさの中に、ひとしずくの哀しみを垂らしたような、そんな顔をしていた。わたしはそれを、どういうわけかとても素直に「すてきな顔だなあ」と受け入れることができた。そして同時に直感していた。彼が、目の前にいる“男”を好いているということを。なぜ男の方だと思ったのか、理由は私にも分からない。だが少なくとも彼のそのときの表情は、そう感じさせるのに十分なものだった。


「帰ろうか」


そう言って彼は、なぜかほっとしたように笑ってわたしの手を引いた。


まだ冬の気配の消えない日のできことだった。 その日を境に、わたしは佐伯くんのことを気にかけるようになった。あの男のことを本当に好いているのか。彼はどんな人で佐伯くんとはどういった関係なのか。聞きたいことは山ほどあったが、私と佐伯くんは元々それほど仲が良いというわけではなかったし、第一何と言って尋ねれば良いか分からなかった。「この前のひとのこと、好きなんでしょう」と突然切り出せるはずもなく、相手が男となれば尚更触れにくいというものだ。「この前のひと」と聞けば、彼は当然女子の方と捉えて答えるだろうし、わたしが男の方だと訂正したところで、彼は間違いなく本当のことなど言わないだろう。

しかし、幸か不幸か、その週わたしはと佐伯くんは日直の仕事で関わる時間が増え、わたしは必然的に彼という人間をよく知ることとなる。一日二日の関わりの中で、わたしは彼について色々なことを知り、感じ取った。

彼はとてもきれいなひとだった。見た目は言うまでもなく、性格も、やさしくて穏やかで、ちょっと意地の悪いところもあるけれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。そしておそらく、彼はとても賢い人だ。彼の言動は、口にする言葉の端々から表情に至るまでひとつひとつがよく創り込まれていた。彼は自分が他人の目にどう映っているのかをよく知っていたし、だからこそ彼は他人に決して隙をつくらなかった。少なくともわたしが知る限りでは、あの校舎裏の一件に出くわすまでは、彼がうろたえたり曖昧な表情を見せたところは見たことがなかった。だからあのときわたしはあんなにも彼の表情に惹かれたのかもしれない。

彼はよく笑った。だがその笑顔までもが、本心とは別のところにあるように感じられて、彼と話していると、ときどき狐につままれたような気分になった。


例の一件から三日が経った今日、校庭の桜が去年より少し遅れて満開を迎えた。校庭の隅、花吹雪に揉まれるように、今にも消えてしまいそうな佐伯くんの背中を目にした。「さえきくん」と、声を掛けようとして思わずその名を飲みこんだのは、わずかに見えた彼の横顔が何かを語っていたからだ。その表情が何を意味しているのか読み取ろうと目をこらしたが、目の前をかけぬける薄桃色がそれをゆるさなかった。結局まばたきを繰り返すだけに終わったが、彼が第三者の介入を拒んでいることは一目瞭然であった。ふと目を離せば、遥か遠くにあの校舎裏のふたりの姿が見え、彼がただならぬ雰囲気の中にいるわけを知った。


二人の姿を見届けた佐伯くんが、くるりと後ろを向き、わたしの方に向かって歩き始めた。まずいと思った刹那、視線が重なる。思わず、「ごめん」と口走っている自分がいた。彼は、少し驚いた顔をした後、いつもの笑顔に戻って「何が?」と言った。


佐伯くんは嘘が下手だ。嘘をつくとき、必ずあの笑顔で笑う。でも、そんなことはどうでもよくなってしまうくらい彼の笑顔は完璧だった。薄く閉じられた瞼と、つやつやと光を反射する睫毛。すっと通った鼻筋と、笑ったときに少し膨らむ頬の印象は対照的だったが、そのバランスは本当によく整っていた。そして何よりも、美しく弧を描くくちびるは、陶器に一筋の朱塗りを施したようで、見た者の心をつかんで離さなかった。


「ごめんなさい。見てしまったの」


「そうかあ、きみはわかっていたんだね」


諦めたように、彼はため息をついた。

そして、


「しーっ、俺ときみだけの、ひみつだよ」


そう言って佐伯くんはその陶器のようにつるんとしたくちびるに自分の指を押し当ててわらった。長くて、細くて、生白い指。うつくしいふたつがぴったりとくっついているのを見ていたら、わたしは堪らなくなって、気が付けば彼の指先とくちびるの端の両方にぱくりと噛み付いていた。



180618

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