しゃぼん玉とんだ
- echo0607
- 2022年6月19日
- 読了時間: 5分
授業をサボタージュして屋上に足を運んだ。携帯電話を教室に忘れてしまったので、代わりに暇潰しになるようなものはないものかとブレザーのポケットの中をまさぐると、シャボン玉のセットが出てきた。そういえば、よく分からないけれどいつも持ち歩いていたことに気付く。目の冴えるような蛍光ピンクの容器のキャップを開け、これまた蛍光緑の吹き口を中に突っ込んだ。シャボン玉なんて、もう何年もしていないなあ。久しぶりだけれど、上手に出来るかなあ。そんな不安を吐き出すかのように、ふうっと息を入れると、泡にすらなっていない液体がばちばちと先端から溢れ出てきた。いけないいけない、これはそうっと優しく吹くんだった。小さい頃もこんな風に上手く出来なくて、泣きながら親や姉から教わったなあ。大きいのが出たときは、嬉しかった。液がついてべたべたする手を、もう片方の手の甲に擦り付けてから、もう一度、今度は優しく息を入れる。俺の顔の目の前で、シャボン玉が小さく震えながらむくむくと大きくなり、やがて吹き口を離れて宙に浮く。そして、空気の微かな動きに合わせて不規則に漂い、屋上のフェンスにぶつかって、ぱちんと弾けた。大きいものが出来た嬉しさと、それが呆気無く壊れてしまった物悲しさで、堪らなくなって「もう一度、もう一度」と次々に空に丸いシャボンの玉を浮かべる。まるで子供の頃に戻ったように、夢中になって膨らませた。膨らませては消え、膨らませては消え、それが虚しくてまた膨らませた。
「しゃぼん玉とんだー、屋根までとんだー」
不意に、どこかから聞いたことのある童謡が聞こえた。お世辞にも上手いとは言えなかった。「屋根までとんでー」と口ずさむ声の主を、俺はよく知っている。「におー」と、ひらがなで書いたようのとても柔らかい口調で俺の名前を呼ぶのと同じように、「こわれて消えたー」と歌って、彼女は俺の目の前に現れた。
「そこから先は知らなーい」
そう言って彼女は、自分の近くを漂うシャボン玉をばちんと両手で叩いて潰した。そいつは、さっき俺が一生懸命作った一番大きいやつだった。
「こわれて消えて、そこから先の歌詞は知らなーい」
彼女は眉をひそめ、液に塗れた掌を見詰めて「うわあ」と呻いた。そして何の躊躇いもなく、それを俺の制服の裾で拭こうとする動作に出たので、俺は思わず「なにするんじゃあ」と素っ頓狂な声を上げて彼女の手を振り払った。その拍子に、足元に置いてあったシャボン玉の容器が、こてんと倒れた。中からとくとくと溢れ出る液体は、コンクリートに染みを作る。その面積はみるみるうちに広がってゆき、容器を縦に直した頃にはもう手遅れで、底の方に僅かに残っている程度だった。「あーあ」と、零れた分を悔やむ声が漏れる半面、どうしてか胸の中を安堵の気持ちがじわじわと占めてゆくのを感じた。吹いては消え、吹いては消えとういうこの堂々巡りからようやく抜け出せる。そう思ったのかもしれない。
倒れた容器を目にした彼女は、「あっ」と声を上げてしゃがみこみ、コンクリートを色濃く染めるシャボン液を両手でかき集めた。目の前に転がっているそれをどうにかした方が早いというのに、彼女はそのことに気付く様子もなく、一生懸命に手を動かしていた。ちょっと抜けたこういうところが好き“だった”んだよなあ。今更ながら、可愛いなあなんて思ってしまう。
「汚れるけえ、貸してみんしゃい」
そう言って彼女の手を掴んだが、それはぬるりという感触と共に、力を込めた俺の指の間を呆気なく抜けていってしまった。温もりを感じる暇さえ与えられなかった。それだけのことだというのに、一瞬にして二人の間に何とも言いようの出来ない居心地の悪い空気が流れる。頭の中がむず痒い。それは期待を裏切られたときの感覚によく似ていた。離れ離れになった二つの手は、本来あるべき状態をなしているだけなのに少しだけ物悲しさを感じた。或いは、寂しさだったかもしれない。ついこの間まで二つは繋がれていることの方が随分と多かったというのに。
「ごめんねえ、溢しちゃった」と言って彼女は立ち上がる。まるで先程までのことなど無かったかのように振舞う彼女を見て、ああ、今ので壊れてしまったと悟る。
あの日、校舎裏で「におーくんのこと、もう信じられなくなっちゃたんだ」と彼女は俺に告げた。その時の光景が鮮明に蘇ってくる。とても寒い日だった。カーディガンの裾から覗くその細い指は痛々しいくらい真っ赤で、北風に対してあまりにも無防備だった。確か彼女は「これからも良いお友達でいようね」とも言った。俺はその言葉に頷いた。哀しいだとか辛いだとかいう感情は不思議なくらい一切湧き起こらなくて、ただ事実を受け入れることが出来たから、頷いたのだ。あの日から俺たちは二人して、無意識か、もしくは勘付いていながらも知らない振りをしながらか、お互いの間にある見えない何かを壊さないように距離を置きながら過ごしてきた。見えない何かは壊れてしまった。ぱちん、とシャボン玉の弾ける音を何処かで聞いたような気がした。
しゃぼん玉とんたー、屋根までとんだー、屋根までとんでー、こわれて消えたー
「こわれて消えて、その後どうなったんじゃ?」
「なにが?」と尋ねる彼女に、「シャボン玉」と答える。
「こわれて消えて、どうなるんじゃろ」
「だからー、その先の歌詞は知らなーいって言ってるでしょ」
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