バケツをひっくり返したような天気とはこういうもののことを言うのだろう。ざあざあと降りしきるそれはまさしく雨だというのに、空は憎たらしいほどに晴れ渡っていた。雨音は、私の耳に入ってくるそれ以外のものを何一つとして受け入れてはくれなかった。傘を差すことはとうに諦めていた。肩や顔に水の玉がぱちぱちと当たって砕ける感触が薄れてゆく。口の中を転がる苺味の飴玉の味が消えるのも時間の問題だろう。豪雨が私の五感を犯していた。頭の天辺から足の先までずぶ濡れになりながら、私は次第に雨が空から降り注いで地中へ吸い込まれていくものなのか、それとも足元から湧き出て上空へと立ち昇ってゆくものなのかまるっきり分からなくなっていった。不思議な感覚だった。世界が沈んでゆく様を見ているようだった。目の前をゆっくりと過ぎゆくそれを見て、私はどうしてか雨粒ではなく気泡だと思ったのだ。濡れた衣服が肌に張り付く不快な感触は無くなっていた。世界は恐ろしいほどに澄んでいて、音だけがどこかくぐもって聞こえた。
「何してはるんすか」
その声は妙にはっきりと私の耳に届いた。声のした方を振り向けば、そこにはよく知った顔があった。
「財前くん」
そう口にした私の声はやはりどこかくぐもっていて、ちゃんと彼の耳に届いたのかと不安になる。
「傘も差さんと、こないなところで何してはるんすか」
――先輩、と私の名前を呼ぶ彼の唇の端から銀色の泡がこぽこぽと音を立てて零れ出て、彼の顔の前を通り過ぎて上へと昇ってゆく。私はそれをぼんやりと目で追った。私を見つめる彼の瞳がぱちりと一回瞬いた。伏せた瞼につやつやとした睫毛が並んでるのが一瞬だけ見えたかと思えば、黒々とした瞳が再び私を覗きこんでいた。
――先輩?もう一度、今度は語尾を少し上げて彼が私の名を呼ぶ。濡れてまいますよ、と彼は言った。もう濡れていじゃない、と私は答える。傘、差しましょう、と言って彼は小さな子供が使うような真っ黄色の傘を広げて私の方へにゅっと差し出した。彼の見た目と玩具のような愛らしい形をしたそれはあまりにも不釣り合いで、面白いくらいだった。思わずくすりと笑いを漏らす。私の口からぷくぷくと出た気泡が頬を軽く撫でてくすぐったい。傘なんて必要ないじゃない、と私は言う。
「雨なんて降ってないんだから」
すると彼は少し驚いた顔をして、ああ、と唸って何かを考え込むように宙を仰いでから納得した様子で「そっスね」と短く頷いた。そう、雨など降っていないのだ。ここは少し前に沈んでしまったのだから。彼は傘を閉じると、足元にぽいっと投げ捨てた。あ、と声を上げる間もなく、それはぶくぶくと地面に飲み込まれていった。歩き出そうとする彼の洋服の袖を引っ張って止める。
「見て」
私が指差す方向、彼の視線の先にあるもの、それはこの澄みきった世界の中では異形を成していて、まるでぽっかりと風景を切り抜いてそこに居座っているかのようだった。オシロイバナが、咲いていた。少しくすんだ緑色の葉の上一面を紅色の花が埋め尽くしていて、うじゃうじゃと群がるようにして咲き乱れるそれは、少々気味が悪いほどだった。緑と赤の水玉模様の塊か何かをぼたりと落っことしたようである。オシロイバナは鮮やかではない。葉も花もどこかよどんだ色をしていて、その癖種子の中は驚くほど汚れ一つない純白をしている。
「汚いのね」
と、私は言う。隣の彼は黙ってい頷いた。スカートが汚れるのもお構いなしにしゃがみ込み、一枚の葉に顔を近付けてじっと覗き込んだ。くすんだ緑の上に一粒、雨粒が残っていた。銀色の玉の中には私がいてこちらをじっと伺っており、その瞳にも丸い粒が映り込んでいて、その中の―― 小さすぎて私の目では捉えきれないが、きっとそれは延々と繰り返されているのだろう。不意に、雨粒が僅かに動いた。それは重力に従い葉脈に従ってするすると落ちてゆく。“つ”という音が聞こえるような気がした。私にはその光景がまるで時間が泥の中に埋まってゆくようにゆっくりと、ゆっくりと見えていた。葉の先端まで辿り着いたそれは、少しだけ重力に逆らうかのように留まってから、宙に放り出された。葉がその反動で少し波打つ。雨粒が地面に叩き付けられたまさにその時、世界が一変した。雨が、降っていた。空気の泡だと思っていたそれは雨で。私や彼の全身を容赦なく濡らしていた。
「財前くん。濡れちゃう」
そっスね、と短く言って、彼は男物の紺色の大きな傘を開いて私を中へ招き入れた。先輩、と彼は聴き逃してしまいそうなほどに小さな声でもごもごと私の名を呼んだ。
「なんで、泣いてはったんですか」
その言葉に私ははっと息を飲む。そうか、私は泣いていたのだ。
110901
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