※江戸時代・ヒロインは遊女
「そこの気の弱そうな女郎を一つ」
頭の後ろで申し訳程度に小さく髷を結った、ほとんど散切りと変わらない奇妙な髪形の若い男が、私を指さして言った。何でも、ここいらで有名な賭博屋のお頭の息子であり、いわゆる若頭らしい。朱塗りの格子を抜けると、後ろの方で他の女郎たちが「いいなあ」「羨ましいなあ」などと騒ぎ立てるのが聞こえた。馬鹿野郎、良いもんか。お偉いの息子だとか、若頭だとか、この手の男が一番面倒なのだ。前に一度、代官の息子を相手にしたことがあるが、気は短いわ、親父の権力を盾にやりたい放題怒鳴り散らすわで、散々な目にあった。
乗らない気持ちで店の一番奥の部屋へと足を運ぶ。一面金箔を敷き詰めた上から、松や鶴やらおめでたい装飾が尽くせる限り施された襖の前まで来た。これを見るたびに、つくづく悪趣味だと思う。それの前で三つ指を立てて自分の名前を名乗る。「お待たせしました」の一言も忘れない。「入ってええで」という声が聞こえたら、いざ、ご対面。襖を開けるとそこには、屏風を背に肘掛けに身体を預けて踏ん反り返った男……などいなかった。どこへ行ったのか、視線を巡らせる。
広い部屋の左奥の窓際に、彼はいた。障子を全開にして、やる気のなさそうに窓縁に身体を預けてもたれ掛かり、外の景色でも眺めているのか、私のことなど視界の隅にも入れて貰えない、といった様子だった。その姿に少し驚く。てっきり、胡坐をかいて、勿体ぶっているように見せかけて、二つの枕が並んだ布団と私とを交互に見ては鼻息を荒くさせているんじゃないかと思っていたからである。
それにしてもこの男、一体全体何なのだ。挨拶の一つくらいしてくれたって良いじゃないか。「お客はん……」と躊躇いがちに言うと、彼は黙ったまま手招きをした。こっちへ来い、ということらしい。礼儀作法通り、膝立ちで、畳の節目を踏まぬよう気をつけながら彼の元へと歩み寄る。そこで初めて、彼は私の方へと身体を向けた。
遠くから見ていたときから何となく察してはいたが、こうして近くで彼の顔を真正面から拝んでみて、はっきりと分かった。この男、相当の美男子である。格子の中にいた時は興味すら湧かなかったが、女たちが私を羨ましがっていた理由も、今なら何となく分かる気がする。
お偉いさんの息子には、奇抜な格好をした傾奇者が多いとよく耳にするが、この男も例外ではなくて、髷と散切りの間を取ったようなその髪型は勿論だが、何よりも目を引くのは、両耳にあけた合わせて五つの穴に通された、銀や翡翠などの色とりどりの輪っかであった。
「アンタ」と、彼が口を開く。
「女々しいフリせんでええで」
ホンマはごっつ我が強いんやろ、と言った。その言葉に、私の心臓はびくりと反応する。しかし、表情は口元に控えめな微笑みをたたえて、平然を装えている筈である。こうして大人しくして、後は寝てしまえば彼の言ったことは全て戯言となって、夜が明けた頃にはすっかり消えてしまう筈である。
「まあ、客に慣れ慣れしくして媚売ったりぎゃあぎゃあうるさいよりは、少し気が弱いくらいの方が客うけはええやろな。せやけどいつも傍に置いておくにはどうも物足りん。やから、ヤルことしか頭にないクソジジイ共に買われることもない。ちゅうても、そこそこ人気はあるから店には置いて貰える。大方そんな寸法やろ。まったく、阿呆みたいに賢い女や」
図星だった。これにはさすがの私も動揺せずにはいられず、微笑みを苦笑いに変えて「お客はん、御冗談がお上手でおすなあ」と言いかけたところで、「それから」と、彼の左手によって言葉を遮られた。
「慣れない京弁はやめた方がええで」
そう言って彼はからからと笑った。
私は元々は東の出で、ここで働くようになってから京弁を使い始め、今では自分でもすっかりものにしたつもりでいたくらいなのだが、六年間仕事をしてきてこれを見破られたのは彼が初めてだった。そうしたら、何だか唐突に自分の京訛りが滑稽なもののように思えてきて、彼につられるようにからからと下品に笑った。
何だ、お偉いさんの息子っていうからどんな糞野郎が来るかと思ったら、お前さん、なかなか気骨があるじゃァないか。気に入ったよ。と言ってやる。「気に入った」なんて、女郎が客に言う台詞ではない。すると彼は、アンタもアンタだ、一体何匹猫をかぶったらそんな風になるんや、と冗談めかして言い、最後に意地悪く口角をきゅっと上げた。五百匹くらいかねェ、それにしても、あんまり上手い冗談とは思えないね、と言えば、言葉遊びはあんまり得意やないんや、と返ってきた。
で、どうするんだい、寝るのかい?いや、いい。じゃあ、詩でも詠むかい?せやから言葉遊びは苦手言うたやろ。だけどお前さん、お手付きや双六をするって柄じゃァないだろ。そもそも女遊びには興味無いんや。だっだらどうしてこんなところに来たんだよ。
すると、彼は黙りこんでしまった。そして着物の袂から扇子を抜き出し、それを開いて優雅な手つきで扇ぎ始めた。彼の次の言葉を待つ間、私はおもむろに煙管に火を付け、煙を吸い込む。本当だったら客の前で煙管など吸うものじゃないのだが。紫煙を吐き出せば、煙は渦を巻き、しばらく宙を彷徨った後、月明かりに照らされた夜闇へと溶けていった。彼が扇子を扱う手つきは相変わらず優雅で鶴の羽ばたきのようだったが、心なしかその行き来が忙しなくなった気がする。
「アンタ」と再び彼が口を開く。その口調は、先程とは打って変わって、喉の奥から絞り出す様に微かだった。
「その着物、似合うとらんよ」
赤の方がええ、と彼は言った。私は、予想もしなかった的外れな返答に戸惑う。今着ている着物は、客が好むからと選んだ、若草色に梅の花が描かれたもので、確かに肌の白い私には似合わないかもしれない。それにしても、なぜ、彼は今こんなことを口にしたのか。そんなことを考えていると、正座した腿の上にずしりとした重みを感じた。「御馳走さん」と、彼が言う。視線を落とすと、和紙に包まれた二十枚ほどの大判があった。どうやら今夜の御代ということらしい。「こんなに貰えません」と言おうとすれば、またしても言葉を遮られた。今度は左手ではなく、唇で、だったが。
「俺はアンタを買いに来たんや」
それは予約分の御代、アンタの身売りの半分の額や。まあ、次に来る時までゆっくり考えたってや。
扇子をパチンと音を立てて閉じると、彼は立ち上がり、出入り口の方へと歩いて行った。襖の前まで来ると立ち止り、まじまじとそれを眺めてから、「コレ、ホンマに趣味悪いわ」と呟く。
「それから」と、襖を開けながら思い出したように彼は言った。
「俺、煙管吸う女は好みやないんや」
それだけ言って、彼は部屋から出て行った。彼の後姿が襖の向こうへ吸いこまれていくのをぼんやりと眺める。そして私は、周囲を松や鶴やらのごてごてした装飾にぐるりと囲まれ、それらと裏腹に何一つ飾り気のない畳の上にぽつねんと一人、残された。
手の中で煙を燻らせる煙管を真っ二つに折る。今度は、赤い着物を着ようか。
110118
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