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海は涙を溶かしていた

「海行きたい」


「は」


彼女の発した言葉が理解出来無くて、間髪入れずに聞き返した自分の行動は間違っていなかったと思う。何故ならば今は極寒の真冬であり、海水浴の最盛るシーズンとは地球が太陽を挟んで正反対の位置にあるためだ。季節外れにも程があり、この時期に海へ行こうなどと考える者は海水浴客は愚か、せいぜい物好きな釣人くらいであろう。彼女は別に釣りを趣味にたしなんでいる訳では無かった筈だ。


「海に行きたい」


「このクソ寒いのにか?」


「おん。海ん中入りたい」


彼女は元々何を仕出かすか分からないところがあったが、それを知っている俺ですらこの発言には驚きを隠せず次の言葉が出てこないでいた。俺が黙っているのを良いことと思ってか、海行きたい海行きたい海行きたいと連呼する彼女は、放って置けば一日中その言葉を吐き続けても可笑しくない様子であり、それを制する様に「行けばええやろ」と促した。


「行けばええやろ。そないに騒がんでも海は無くならへん」


「嫌や」


「は」


これは本日二度目の反応。


「光と一緒がええ」


「阿呆ちゃうか」と言えば今度は、光と一緒がええ光と一緒がええ光と一緒がええと言い出す始末だった。


「……俺、今から部活なんやけど」


「サボったらええやん」


「は」


これは、三度目。


そんな訳で、とは言え自分でもどういった経緯でこうなったのか分からないのだが、どういう訳が俺は部活をサボタージュして彼女と共に学校から自転車を20分程走らせたところにある近場の海まで来ていた。

学校を出発した時は、前を颯爽と走る彼女の後ろ姿に憎悪の視線を浴びせながら、この極寒の最中お前の気紛れに付き合う俺の身にもなってくれと胸中で不満を漏らしたが、少し汗ばむ程に身体が温まった今では、そんなことはすっかり気にならなくなっていた。

浜辺、と言っても船着き場と防波堤の間に砂を盛った小さなスペースには案の定人の姿は見えず、遮る物が一つもないそこはびゅうびゅうと唸る潮風をよく通した。


「……着いた」


そう言って彼女はその場で靴を脱ぎ捨てて裸足になり、自転車の籠の中に転がる缶ジュースを引っ掴んで浜辺へと降り立った。因みに彼女の手の中に握られているそれは、此処に来る途中、奢れ奢れ奢れと例の三連呼で先刻同様に押し切られ、俺の財布から出てきた120円で自販機から転がり落ちて来たものである。てっきり寒さに堪えかねてホットコーヒーでも買うのかと思いきや、彼女が押したのは毒々しい紫色のパッケージで彩られた炭酸飲料のボタンだった。

彼女は海の中へと一目散に駆け込み、足首が水に浸かるくらいのところで立ち止まってタブに指を掛けた。北風が容赦無く吹き付ける真冬の空の下、おそらく限りなく零度に近くなっているであろう海に足を突っ込んで、これまたキンキンに冷えた炭酸飲料を口にするなんて、どこまで馬鹿げているのだろう、などと思っていると、海の方から悲鳴が上がった。

声のした方を見ると、手に持った缶ジュースの口から泡となった炭酸飲料がぶくぶくと何かの生き物の様にうごめきながら溢れ出し、海面にぼたぼたと落ちるそれを見てあたふたする彼女がいた。

籠の中で何十何百と揺らされ、跳ね上がり、転がるうちに、抜けた気体が恐縮されたそれを開封するということは、云わば爆弾の発火スイッチを自ら押す様なものである。彼女は未だ爆発の余韻を残すそれを片手に、中の飲料が制服に溢れないように距離を保ちながら、手の中の小さな爆弾が完全に沈黙するのを待っていた。待っている様に見えたのだ。最初だけは。だが彼女は爆発がおさまってからも微動だにせずじっとその場に立ち尽くしており、てっきり飲み口を見詰めているのかと思っていた視線はいつの間にか海面に向けられていた。名前を呼んでみたが返事は無く、手に掛かった飲料が手の甲を伝い、手首のところで留まって水滴となり、海へと虚しく落ちていくだけである。制服のズボンの裾を捲って、冷たさに顔をしかめながらざぶざぶと海へ入って彼女の元へ辿り着くと、そこで目にしたものに本日一番の驚きをもたらされた。

彼女は泣いていたのだ。涙を流すその瞳には、悲哀の色も落胆の色も無ければ、これと言った感情を何一つ浮かべることもなく、ただただ無機質に、機械の様に涙を作り出していた。否、それは涙でなく水と呼ぶべきなのかもしれない。目蓋の中に収まり切らなくなったそれは、彼女が拭おうとしないが為に何の障壁も無く頬を伝い、ぽたぽたと海面に落ちて小さな波紋を作る。その波紋も、次から次へと押し寄せる波によって跡形も無く消されてしまう。

それを見て何故か、勿体無いと思った。彼女の目から溢れ出す涙も、その涙が作り出す波紋すらも、消えてしまうのが勿体無い。


「どないしたんや、急に泣きよって」


「……」


「ジュース溢れたんがそないに残念やったか」


彼女はふるふると首を横に幾度か動かす。


「悲しいことでもあるんか」


「あらへんよ」


「せやったら何で」


「何もあらへん。なんや自分でもよう分からんけど、気付いたら涙出とった」


俺はお前の方がよう分からんわ、という言葉を呑み込んで、二人の間に暫くの間沈黙が流れた後、不意に彼女が、


「青いね」


と、呟いた。相変わらず涙は流れ続け止まるところを知らなかったが、その目は眼前に広がる海をしっかりと見据えている。


「おん、青いな」


「綺麗やないけど、青い」


「せやな」


海は、青かった。此処が大阪であることを忘れてしまうくらいに。だがその現実離れした青の真上には、塵と埃とを混ぜこぜにした様な薄汚い灰色の雲を敷き詰めた冬空が広がっており、その組み合わせはどう見ても不釣り合いであった。単体であれば美しかったであろうそのコバルトブルーを彼女が「綺麗ではないが青い」と言い表したのは、おそらくそういう意味を込めてのことなのだろう。ごおっ、と音を立てて耳の横を潮風が切り、鈍った聴覚の代わりとでも言うかの様にして、吸い込んだ空気の冷たさに鼻の奥が“つん”と刺激されるのを少し遅れて感じた。


「こっちはこんなに澄んでるのに、向こうは青い」


足元の海面を指差してから「不思議ね」と彼女は付け加えた。


「私が流した涙も、向こうに行ったら青くなるんやろか」


「……なるやろ」


海が青色をしている原理その程度の知識は持っていたし、沖へ行けば水が青に変化する訳ではないということも勿論知っていたが、それでも彼女の涙は青くなる様な気がした。透明だったそれが海水にゆるゆると紐解けて混ざり合いながら徐々にコバルトブルーへと色付いていく様子がありありと想像出来るのは、何故だろう。

ようやく彼女は手に持った缶ジュースに口をつけ、こくんと一口飲んで「美味しい」と言った。そう言って“にへら”と笑う彼女の姿に、気が抜けきってしまった炭酸飲料が果たして美味しいものなのか疑いたくなる気持ちも次第に薄れてゆく。

彼女は確かに笑ってはいたが、その笑った顔の上を、とめどなく溢れ出る涙が頬に新しい道筋を幾つも残しながらぽろぽろと流れ落ちていくものだから、笑っているんだか泣いているんだかもはや区別し難かった。


「笑うんか泣くんか飲むんか、どれか一つにしいや。訳分からんようになってるで」


「じゃあ、泣く」


ぼとり、と音を立てて、まだ中身の入った重いアルミ缶が海の中に落とされた。彼女の生白い手は未だ缶を握った形のまま空中に置かれて彫刻の様である。

そして彼女は泣き続けた。

波の動きに合わせて砂の上を行ったり来たりする缶の飲み口からゆらゆらと流れ出す薄紫色を見ながら、この液体も沖に辿り着くころには青くなっているのだろうか、と考える。多分、ならない。沖合いでコバルトブルーの輝きを放つようになるのは、彼女が今ぼろぼろと溢している涙、ただ一つ、そんな気がした。



100309

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