夢を、みていた。
どす黒い雲が透かしているのは血の様に真っ赤な空で、その深紅の空の下には一面に真っ黒な焼け野原が広がっていた。おそらくかつては街と呼ばれていたのであろうそこは、ビルも家屋も街灯ですらも黒く焼け焦げて崩壊し、汚れた空に汚れた黒煙を立ち上らせていた。そんな光景が何処までも何処までも続いており、遂にその反復に終止符を打ったのは遥か彼方に見える地平線だったが、きっとその先にも同じ光景が続いている筈である。それはまるで地獄絵巻の様だった。
人の気配は皆無だった。ただ一人、自分を除いては。俺は、瓦礫の山に囲まれて泣き叫んでいた。涙は枯れ果て喉の奥から出てくるのは“ひゅうひゅう”という息継ぎの音だけで、もはや何を言っているのか判別し難かったが、それでも尚俺は虚空に向かって何かを叫び続けた。「助けて」と言っていたのだと思う。手には焼けた赤子を抱いていた。元はふくよかだったのであろうその手は、ただれた皮膚が骨に貼り付いて一回り小さくなり、拳を作った形のまま炭と化していた。俺は、その深紅の空と真っ黒な焼け野原の狭間で、炭と化した赤子を抱いて泣き叫んでいた。
じゃり、と背後で砂を踏む音して我に返って振り返れば、そこには一人の女がいた。「女」というよりは「少女」という言葉の方が似つかわしい彼女は、その小さな身体から圧倒的なまでの存在感を発しており、先程まで皆無だった人の気配が嘘の様だった。否、それは彼女の存在感というよりはその風貌によるものなのかもしれない。モスグリーンのスカートのプリーツは規則的な間隔を保ってきちんと整えられており、その上に伸びる真っ直ぐな背筋に沿う様にして皺一つ無い白いワイシャツは滑らかで、その中央を真っ赤なネクタイが一本通っていた。彼女の長い髪は背後の瓦礫に同化してしまいそうな程に黒く、ワイシャツの純白によく映え、生温い風に揺れてシャツの上に不思議な模様を作った。傷も汚れも何一つとして無い彼女の姿は、周囲の情景に溶け込むのを拒んでいる様にも見え、言い換えれは滑稽とも言え得る程に不釣り合いだった。俺はその矛盾の中に一つの答えを見出だした。彼女はこの世ならざるものである、と。
彼女の形の良い薄桃色の唇は唄を歌う様にこう言葉を紡いだ。
「泣いて、叫んで、助けを求め、そうして世界は変わるのか」
額を横一文字に横断する切り揃えられた前髪の下から覗く漆黒の瞳と視線が重なったその時、
「答えは――――」
そこで、目が覚めた。ぶつん、と画面をシャットアウトされる様に見えていたもの聞こえていたものが一斉に途切れたため、彼女が最後に何を言ったのかは分からなかったが、それは聞いてしまってはいけないことだった様な気がして心の底から安堵の溜め息を漏らす。漏らしたそれが酷く冷々とした室内の大気に吸い込まれて消えていくのを、目に見える様に鮮明に感じた。
悪夢だった。汗でびっしょり濡れた身体に布団や衣服が貼り付く感覚が何とも不愉快であり、未だ呼吸は吸ったり吐いたりを荒く繰り返し、目は瞬きを忘れたかの様に天井を見据えていた。「赤也!」と、母親が自分の名前を呼ぶ声で、微睡みの中からずるずると引き摺り出される様にして布団から這い出し、起き上がった。床に転がり落ちている目覚まし時計が示す時刻を見るや否や、靄が晴れる様に頭の中が一気に冴えていった。
「やっべえ」
朝食も取らずに家を飛び出すと、中途半端に履いたローファーの踵が内側に折れ込んで足首を痛め付けるのにも構わずに走った。走りながら脳裏に浮かんだのは、幸村部長を筆頭とする三強と呼ばれるあの三人の顔で、きっと彼等は俺が泣いて謝ったとしてもそれなりの罰則を与えるだろうし、丸井先輩達に助け船を求めたところで返って来るのは哀れみの視線だけだろう。その光景が、部室の中に漂う緊迫した空気に至るまでありありと想像が出来、同時にこれは今年に入って何度目になるかと考えたが、自分でも明確な回数は分からなかった。おそらく柳先輩辺りは覚えているのであろう。そしてその数字は長い説教の中に盛り込まれるのだ。「赤也、これは4月から通算何度目の遅刻だ?俺のデータによると……」後ろから迫り来る轟音に気が付いたのはその時だった。
「うわ、マジかよ」
乗る筈だったバスは悠々と俺を追い越し、50メートル程先にあるバス停に停まって乗客の乗り降りを済ませると、黒煙を撒き散らしてあっという間に彼方に消えた。遠退くエンジン音を聞きながら絶望に打ちひしがれ、「畜生」とか「最悪」だとかいうやり場の無い苛立ちを最も端的に表した呪いの言葉を吐く他に口から出てくるのは、乱れた呼吸を整える為の幾つかの吐息だけだった。
最後に一つ、大きく溜め息をつくと、傍にあるベンチにどっかりと腰を降ろした。髪に手ぐしを入れ、元からぐしゃぐしゃだった上に寝癖で更に絡まるそれに苦戦していると、指の間から見える景色に目が留まった。道路の向こう側、反対車線の歩道に備え付けられたバス停のベンチに一人の女が座っている。女、いや、少女と呼んだ方が相応しい彼女は、膝の上に置いた本を読んでおり、その本の下にはモスグリーンのスカートのプリーツが規則正しく並んでいた。スカートに調和する様にしてワイシャツは皺一つ無くきちんとアイロンが掛けられており、その純白と対照的に彼女の髪は真っ黒だった。彼女の顔の左右両側からベンチに真っ直ぐに降りる長い髪に挟まれて縦に垂れるネクタイは真っ赤で、それは血の色を連想させた。
背筋が、凍った。不快な寒気が背中を駆け上るのと同時に全身の産毛が逆立つのを感じ、磔にされた様にその場から動けないでいた。視線すらも彼女からそらすことを許されない俺の頭の中は、どうして彼女が此処に?一体何故?これは何だ?と、数々の疑問詞で埋め尽くされたが、その答えは一向に見出だせなかった。
地面を揺らす機械音が遠方から微かに聞こえ、少し遅れて反対車線を走るバスが此方に向かって来るのを視界の隅で捉えた。その姿を見るや否や心の底から安堵したのは、あのバスが彼女を乗せ、俺の目の前からその姿を消し去ってくれることを期待したためである。小さくなっていくバスの後ろ姿を思い浮かべながら、やがて見えなくなるそれと共に、俺が今見たものも全て無かったことにしてしまおう、そうしようと考え、一方頭の片隅では夢の中で彼女が言った言葉を思い出していた。
「泣いて、叫んで、助けを求め、そうして世界は変わるのか」
確か、こんなことを言っていたのだと思う。そしてこう付け加えたのだ。「答えは――――」
「否だ」
バスは、停まらなかった。まるで始めからそこが無人のバス停だったかの様に、一定のエンジン音を唸らせながら目の前を走り去った。走り去るバスの車体が一瞬だけ彼女の姿を消し、次の瞬間、そこはまさしく無人のバス停の如く誰もいなくなっていた。ただ一つ、彼女の膝の上にあった本を除いては。
代わりに耳元で聞こえたのは自分のものではない誰かの声で、それが俺のすぐ隣から発せられたものだと気が付くまでにそれほど時間が掛からなかったのは、視界の隅に見覚えのあるモスグリーンが映ったからである。額を横一文字に横断する切り揃えられた前髪の下から覗く漆黒の瞳と視線が重なった。――――暗転
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