秒針の裏側
- echo0607
- 1 日前
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元々あまり器用な方ではなかった。例えるならば、水を掻くのが下手で、手足をばたつかせるほど水底へ沈んでいってしまうような、そんな感覚に近い。人の輪の中にいると、どうしたって浮いてしまう自分が嫌で、十数年かけて大人数の中に溶け込む術を会得した。妙に負けず嫌いな面が功を成して、幸い勉強や運動は人並み以上にできた。一方で、そんな自分を認めて欲しいという自己顕示欲を抑え込むのに人一倍の精神力を費やした。“普通”でいるためには、幾分か自分を殺す必要がある。大学を卒業して教職の道に進むと、“普通”でいることへの執着はより顕著になった。教壇に立ち、生徒たちを“普通”の枠の中に閉じ込めようとするとき、自身ものその中にいることを自覚しなければならないからだ。“どうしてこんな自分が教師に……”と、思わなかったわけではないが、結局のところ私は、食べて、衣服を着て、眠りにつくという至極単純な生命活動を維持するために、働くことを辞めることができなかった。
そんな風に常時気を張り詰めているものだから、人一倍気力も体力も消耗したが、週五の勤務を終えて疲弊しきっても、週末の休みのほとんどを睡眠に費やすことで、自分の足で教壇に立てるくらいには回復できた。ただし、それができたのは採用直後の副担任の頃だけだった。教職五年目から高校二年生の担任と部活の顧問を任されるようになってからは、土曜日は部活の練習、日曜の午後からは翌週の授業の準備に追われるようになった。そんな生活を繰り返すうちに、何処にいても教卓から見える教室の景色が頭から離れず、仕事から自身を引き剥がすことができなくなっていった。年度明けからずっとそんな調子で、それでも夏休みがくれば授業もなくなり幾分か余裕ができるだろうと、それだけを心の支えに何とかそれなりにやってこれていたが、夏休み開始の一週間前にして、ついに私は職場へ出向くことが出来なくなった。
その日は普段通りに家を出て、通勤電車に乗っていた。十分ほどうたた寝をし、目が覚めると職場の最寄駅の一つ前まで来ていた。鞄から定期を取り出し、降りる準備をする。駅員の気怠げなアナウンスが車内に流れ、“このくらい脱力して仕事ができたらな”などと考えながら立ち上がろうとして、膝に全く力が入らないことに気がついた。背中や腰から根が生えたように、座席から立ち上がることができない。そのまま最寄駅を通り過ぎ、三、四十分ほど電車に揺られ、ついに終点の見知らぬ駅に降り立った。腕時計を見ると、始業開始時間を五分ほど過ぎていた。鞄からスマートフォンを取り出して、学年主任の番号に電話をかける。通話ボタンを押す前は、何と言い訳をしようかとあれこれ考えて悩んでいたというのに、気づけば驚くほどスムーズに「すみません、体調を崩してしまって」と告げていた。
“最近暑くなってきたしなあ。ゆっくり休めよ。こっちのことは、気にしなくていいから。”
「はい、すみません。ありがとうございます」
通話を終え、スマートフォンを鞄に仕舞う。腕時計の皮のベルトが汗ばむ腕に張り付く不快感に眉をひそめ、外して鞄の中に無造作に詰め込むと、改めて自分が降り立った駅の看板を眺めた。聞いたことのない名前の駅。普段通勤で使うこの路線に、こんな駅名があることすら知らなかった。無人駅と、古びた木造住宅がまばらにあるだけの海辺の田舎町。線路のすぐ側に海があるようで、ここからでも波の音が聞こえる。しばらくの間、駅のホームから街並みとその向こう側の山間の景色を眺めて呆けていると、向かいのホームに停まっていた電車の車輪が回り出す金属音がして現実に引き戻される。ゆっくりと都心部の方向に向かって走り出す車両を目にするや否や、“しまった”と自分の失態に気がついた。ここが田舎町であることをすっかり忘れていた。時刻表を見ると、次の電車は一時間後だった。到着までの時間をどうやり過ごすか少し考え、ひとまず駅の外に出てみることにした。無人の改札をくぐり、駅を出て出入口を振り返る。駅名の書かれた看板の上だけ少し建物の背が高く、そのてっぺんに古びた時計があった。町の中で一番高い建物であるこの駅は、時計塔の役割も果たしているようである。錆びついた針が数える一秒は、普段より心なしかゆったりとした間隔で時を刻んでいるように聞こえた。波の音がする方へ歩いていくと、小高い堤防が見えた。これを超えるとすぐそこに海が広がっているのだろう。堤防は視界の遥か先まで続いていて、脇を走る道路も同じくらい果てしなく続いていた。見知らぬ町に入り進んでいく勇気もなく、かと言ってあと一時間弱もの時間を何もせずやり過ごすのも気が滅入りそうなので、堤防沿いの道を歩くことにした。
日は既に高く、蝉は暑さを嘆くようにじいじいと鳴いていた。朝のニュースで“今日は一際暑くなる”と天気予報士が告げていたことを思い出す。ワイシャツのボタンを一つ開け、袖を捲ったが、汗は拭っても拭っても吹き出してきた。冷たい飲み物を買おうと自販機を探したが、どれも売り切れか、古びて飲み物の交換がされていない。やっと見つけた小さな売店に入り、冷蔵ケースからお茶のペットボトルを掴んだところで、ケースの隅に置かれたラムネの瓶が目に入った。ラムネなんて、随分前に友人と行った夏祭りで飲んだっきりだ。その懐かしいフォルムに心を動かされ、気がつけば水色の瓶を手に取り、お茶のペットボトルと並べて会計を済ませていた。店を出てすぐのところに置かれたベンチに腰掛け、少々苦戦しながらラムネの封を切った。ビニールを剥がすと、ピンク色のプラスチックの蓋と“玉出し”が顔を出した。蓋を外して玉出しを瓶の口に当て、親指の付け根で真下に押すと、ビー玉が落ちる感触と共に炭酸が吹き出した。慌ててベンチから離す。ぱちぱちと炭酸が爆ぜる音と共に、瓶を伝って落ちたラムネが地面に玉模様の染みを作った。音が落ち着くのを数秒待ち、瓶の口に唇を押し当ててラムネを喉に流し込んだ。嚥下するたびに喉元で爆ぜる炭酸の感覚が心地良い。
ラムネの空瓶を片手に、ワイシャツのボタンをはだけさせて海沿いの田舎道を歩く私を見て、教壇に立っている姿を想像できる人間がどれだけいるだろうか。それほどまでに、そのときの私は自由を体現していた。この自由に横槍を投げる者などいないはずだと、そのときの私は信じて疑わなかった。堤防の影を日除けにし、真っ直ぐな一本道を歩いて十分ほど経った頃だった。不意に、頭上から聞き覚えのある声がした。
「せんせー、せんせーじゃなかと?」
「せんせー」と末尾を伸ばし、平仮名で書くのがぴったりな柔らかな口調で私の名を呼ぶ声を、私はよく知っている。
「千歳くん?」
堤防の上に腰掛け、太陽を背にこちらを見下ろしている。私が担当するクラスの生徒の一人、“千歳千里”の姿がそこにあった。側に無造作に置かれたラケットケースを見るに、大方部活の朝練を抜け出してきたのだろう。
“千歳千里”
私は正直、この生徒があまり得意ではなかった。
始業式の後の初回のホームルーム、「千歳千里です。よろしくばい」と九州訛りで自己紹介をする彼の姿に、私を含めた教室中の人間が引き寄せられた。無造作に跳ね上がったもじゃもじゃの黒髪、二メートル近い長身と長い手足、日に焼けた肌、着崩した制服。人を惹きつける理由たるに十分な風貌だったが、それだけではない独特の雰囲気みたいなものが彼にはあった。高校生という多感な生徒たちの中で、千歳千里の存在が話題の中心となるまでそう時間はかからなかったが、一方で彼自身はそんなふうに自分が注目の的となっていることを知ってか知らずか、ほとんど教室に姿を現さなかった。学年主任に尋ねたところ、彼のサボり癖は今に始まったことではないという。授業にあまり顔を出さないので、教員の誰しもが彼の成績を案じたが、テスト当日にふらっと教室に現れ、しっかりと平均点かそれ以上の点数を取るのだから、無闇に叱ることもできまい。高校二年、いわゆる“中弛み”と言われる時期の生徒たちの中で、千歳千里の存在はその弛んだ空気を顕著にさせているようで煩わしかった。わかりやすく反抗的な態度でも取ってくれた方がまだやりやすいのだが、彼はいつ話しかけても物腰柔らかで人当たりも良く、いかにも好青年といった感じで、かえって対応に困るのだ。私の中で、千歳千里という生徒はある種の問題児として映り、今もまさに手を焼いているところだった。
「やっぱり、せんせーやった。こんなとこで、何ばしよっとですか?」
そんな私の苦労を知ってか知らずか、彼は普段通りの緩やかな口調で尋ねた。タメ口と敬語の混じったその喋り方が、何だかおちょくられているようで好きになれない。
「千歳くんこそ、こんなところで何やってるの?また授業をサボって……」
と、言いかけたところで口をつぐんだ。“サボり”に関しては、今日ばかりは人のことを言えないからだ。
「せんせーも、サボりやなかと?」
長い足をぱたぱたと前後に揺らして、首を傾げる。少し幼さの残るその仕草に、見た目とは裏腹に彼がまだ十代の少年であることを自覚させられる。
「今日のことはお互い他言無用にしましょう」
「悪い大人ばい」
逆光でよく見えないが、おそらくにやにやと悪戯っぽく笑っているのだろう。地面の照り返しを映し出す黒目のハイライトが、下瞼の形に合わせて歪んだのを見たような気がした。先ほどまでの子どもじみた仕草と、色めかしさすら感じさせる大人びたその表情とのギャップに、心臓をぎゅっと掴まれたような気分になって、思わずどきりとする。
「こん先を歩いて行っても、何もなかよ」
「ここに来たことがあるの?」
「いんや。さっき歩いて確かめてきたばい。おんなじ景色がずーっと続いとって、飽き飽きして戻ってきたと」
何のために、と、言いかけて辞めた。自分がここまで歩いてきた経緯を思い返せば、わかることだった。加えて、この暑さで会話を続ける気力が底を尽きていた。
見知らぬ田舎町の無人駅で、一人の教師と一人の生徒が待合スペースのベンチに腰掛けて次の電車を待っていた。
暑さを凌ぐために来た道を引き返したが、涼めるような場所も見当たらず、結局駅まで戻ってくることとなった。古びた駅の、「待合室」と呼ぶにはお粗末な十畳ほどの空きスペースには、これまた古びたベンチが三脚ほど置かれていた。三脚のうちの幾分かましな見た目の一脚に腰掛けると、後ろから着いてきた千歳千里も、当たり前のように隣に腰掛けた。鞄からクリアファイルを取り出し、団扇代わりにして風を送っていると、羨ましそうにこちらを眺める彼と目が合った。ファイルを彼に手渡し、自分は鞄から読みかけの文庫本を取り出し、ちょうど半分あたりを開いて仰いだ。ファイルには劣るが、何も無いよりはいくらか涼を取れるような気がする。
「せんせーは、なしてあんなところば歩いてたと?学校は大丈夫とね?」
”お前がそれを言うか”と言いたくなる気持ちは、真っ当な大人の感性を持った自分が胸の奥に留め置いてくれたというのに、暑さで頭をやられたのか、自分の中の幼い一面がひょっこりと顔を出し、次の瞬間、私は自分でも信じがたいことを口にしていた。
「その、“先生”って言うの、今日はやめて欲しいんだけど」
自分で言っておいて、それが少々誤解を招く言い回しだったことに気がつき、慌てて訂正する。
「違うの。今日は教師であることを忘れたくって。学校休んだのも、仕事がしんどくなっちゃったからなの。だからね、今日は“先生”やめたいなって」
話終わるより早く、彼は「わかった」と言うようにゆっくりと頷いた。
「でも、そんなら何て呼んだらよかと?本名は、何だか変な感じになってしまうばい」
言われてみれば確かにそうだ。頭の中で、十以上歳の離れた彼が、私の苗字や名前に“さん”を付けて呼ぶ光景を想像してみて、これでは妙な関係性を疑っても仕方あるまいと思ってしまった。
「みゆき」
手元の文庫本の作者名が目に入り、ぽつりとその名を口にした。半ば脊髄反射的に口を衝いて出てきた単語であって、特段他意はなかった。
「“みゆき”って呼んでよ。今日だけは、わたし、“みゆき”っていう名前の別の人間になる」
すると、彼は決まりの悪い表情で、とても言いにくいのだが、という前置きと共に自分に「ミユキ」という名の妹がいると告げた。「それじゃあ……」と、別の名前を思い浮かべようとしてみたが、どうしても学校の生徒の名前が出てきてしまう。苦悩する様子の私を案じてか、彼は諦めた様子で私を“みゆき”と呼ぶことを渋々承諾した。
海沿いの田舎町に佇む小さな無人駅。
駅の構内はどんよりと薄暗く、じっとりとかび臭く埃っぽい空気が立ち込めていた。蝉の声は外壁を通してくぐもって聞こえ、まるで外の世界から遮断されているようだった。壁一面を埋め尽くすようにびっしりと、“交通安全”や“痴漢注意”を呼びかける古びたポスターや、町の集会所の便りが幾重にも貼られていた。“まるで現代版の御札だな”などと思いながら、そのひとつひとつに書かれた文字や絵に視線を滑らせる。売店に寄って捨てるつもりで持ち帰ってきてしまったラムネの瓶を揺らすと、ガラスの壁にビー玉がぶつかり、湿気を孕んだ空気を鋭い音が切り裂いた。
次の電車までの時間は、あと二十分ほど。隣に腰掛ける彼は、手持ち無沙汰なのか、伸びをしたりもぞもぞと姿勢を変えたりと、始終落ち着きがなかった。“教師”の私なら、そんな彼を気遣って話題の一つでも降っていただろうが、“みゆき”という名前を得てしまった私は、どうしたってそんな気が起こらなかった。教師でなければ、十代の、教室や学校中にうじゃうじゃといる少年が何をしていようと、私の人生には一ミリも関係ない。それが私の本音だということに、この状況に陥って初めて気付いた。
「みゆきさん」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。彼の口から紡がれた“みゆきさん”という名が、自分を指すことに気がつくまでに時間を要し、少し遅れて反応する。
「みゆきさんは、なして教師ばなろうと思ったと?」
そう言って彼はこちらをじっと見つめた。真っ黒な瞳が、薄暗い構内で僅かな光を反射し、金魚の目玉のように爛々と私の方を向いている。こちらを見ているはずなのに、どこか別のものを捉えているようで、何を考えているのかまるでわからない。私は彼のこういう得体の知れなさが、どうにも苦手だった。
「どうして教師になったか、ねえ。そうね、高校のとき友達に勉強を教えていて、“教え方が上手い”って言われたのが……」
月並みな理由を並べ立てて数秒、急に馬鹿らしくなって口をつぐんだ。私はそんな高尚な理由で教壇になど立っていないのだ。その証拠に、今だってこうして体調不良を偽って仕事を休んでいる。
「嘘、嘘。さっきのは無し。大した理由なんてないの。本当はね、大学のとき全然就活が上手くいかなくって、一応教員免許は持ってたから、一か八かで受けてみたら受かっちゃって……って感じ」
“みゆき”を通して紡いだ言葉は、口に出したそばから消えていくように軽やかだった。
千歳千里が今日の私の愚行を学校に告げ口しやしないだろうかと案じなかったわけではないが、何となく、彼はあまりそう言ったことには興味がないだろうという根拠のない自信のようなものがあった。それもまた、私を饒舌にさせている要因のひとつなのだろう。私のくだらない話を聞いて、さぞかし幻滅しただろうと隣を覗き見ると、そこにはどういう訳か嬉しそうに頬を緩めて笑う彼の姿があった。
「なあんだ、安心したばい」
「安心した?」
「もっと立派な理由ばあるかと思っとったたい。せんせー、いつも一生懸命やけん」
彼は目尻に皺を寄せて、口元を綻ばせながらくつくつと笑った。教室の片隅で友人たちに囲まれながら目を細めるときのそれとは違って、随分と大人びて見える一方で、悪戯をした子どもの含み笑いのようにも見える。普段は本音がなかなか見えない彼だったが、そのとき初めて彼の本心に触れたような気がした。
呼び名が‘’先生‘’になっていることは、指摘しなかった。それよりも、彼の目から見ても教師の自分が‘’一生懸命‘’に映っていたことが、努力を認めて貰えたようで嬉しくもあり、少々照れ臭くもあった。
「そういえば……」と、自分の進路の話をする中で、不意に彼だけ進路希望調査の用紙を回収出来ていないことを思い出した。クラスで提出がまだなのは彼一人だけで、校内で見かけるたびに提出するようせっついたが、のらりくらりと交わされるばかりだった。そのことを彼に告げると、またしても「今日は“先生”やなくて“みゆきさん”やけん、出す必要なかとね」と揚げ足取りに近い理由をつけて逃げられてしまった。
「千歳くんは、将来“ワルイオトコ”になりそうだなあ」
と、冗談めかして言ってみると、先ほども見せた悪戯っぽい含み笑いとともに「人聞きの悪いこつ言いよるとね」という返事が返ってきた。他意なく相手の欲している言葉を並べ立てる一方で、向き合いたくないことからは手応え無くするりと逃れる世渡り上手な男を、私はよく知っている。過去に交際したことのある男性を思い浮かべてみて、心当たりのある人が少なくとも二人はいた。私が気がついていないだけで、本当はもっといたのかもしれない。
ベンチの背もたれに体を預けて駅の天井をじっと見つめる彼の姿を、まじまじと眺める。他の生徒に比べれば頻度は少ないにしても学校で度々顔を合わせるというのに、こんな風に彼を間近で観察したのは初めてのことだった。もじゃもじゃの髪の下から覗く瞼には、構内の暗がりも相まってくっきりとした二重の溝が刻まれていた。すっと伸びた鼻筋のてっぺんで、構内の僅かな照明が光を集めている。すらりと長い手足は、手首やくるぶしが骨ばっていて、彼が成長期の少年であることを物語っていた。学校という匣の中の千歳千里という少年は、ある種の幻の生命体に似た、どこかこの世ならざる者のような数奇な存在感を放っていたが、匣の外に放たれた彼は、紛うことなく一介の十代半ばの少年として映って見えた。
東の方から、電車の車輪が線路を打ち鳴らす音が聞こえた。鞄から腕時計を取り出して時間を確認すると、次の発車時刻まであと二分ほどだった。急いで鞄に文庫本を仕舞い、改札に向かおうと立ち上がったが、その間、隣の彼は微動だにしなかった。
「俺はもう少しここにいるばい」
「これを逃したら、次はまた一時間後だけど」
「知っとうばい。先行きなっせ」
促されるままに改札をくぐり、電車に乗った。二駅ほど過ぎたところで、ラムネの瓶を駅のベンチに置いたままだったことに気がつく。戻ってまた時間をやり過ぎす気も起きず、彼がそれに気がついて売店のゴミ箱にでも捨て置いてくれたらと願いながら、車窓から見える景色に視線を委ねた。窓枠を空と海の二つに分断するように一直線に引かれた水平線は、どこまでもどこまでも長く続いていた。
*****
千歳千里と終点の田舎町で偶然出会ったあの日から、約五年の月日が流れた。
教師の皮を被り、息をすることすら億劫だったあの頃と違い、今は当時より幾分か息継ぎが上手くなったと感じている。あの日、“みゆき”という新しい人格を手に入れてから、教壇に立つ重責に嫌気が刺すたびに、“みゆき”という現し身に憑依することで、腹一杯に蓄えた憂いを自身の体から引き剥がすことを覚えた。教師であることへの葛藤も、自分の振る舞いに対する嫌悪も、“みゆき”でいることで、置いてきた身体からぱりぱりと乾いた音を立てて、日焼けした皮が剥けるかのように剥がれていくのだ。
千歳千里とは、あれ以来特別深い関わりを持つことはなかったし、彼の前に“みゆき”が姿を現すことは二度となかったが、どういうわけかあの日を境に彼は授業や部活への出席率が目に見えて上がっていった。あまりの変わりように、学年主任の教員から「何か指導を行ったのか」と度々尋ねられたが、特段思い当たる節もなく、何より仕事をサボってふらふらしていたことを知られたくなかったので、曖昧な返答を返すばかりだった。彼が三年に上がってからは担任から外れてしまったため、益々関わる機会は減ったが、聞くところによると最終的にはある程度名の知れた国立大学に進学したという。彼が大学に受かったという知らせが入ったとき、職員室はどよめきだったが、私はさして驚きはしなかった。一体全体、何が彼のやる気に火を点けたのか、全く見当もつかなかったが、元々少ない出席日数ながら赤点を余裕で回避していたところを見るに、かなり要領が良く頭の回転が速い人間であるということを知っていたからである。
一度だけ、彼と会話らしい会話をしたことがある。
彼が三年に上がった年の三月末のことだった。卒業式の日、最後のホームルームを終えて職員室に向かう途中、渡り廊下を歩いていると、廊下の窓から見える中庭の片隅に、千歳千里の姿を見た。背の低い植木が数本植えられた小高い丘の中腹で、背中を丸めて何かをじっと見ているようだった。西陽が眩い中庭に、乾いた風が吹き込む。桜の花弁が彼の周りでくるくると舞い踊り、見えはずのない風の筆跡を見た気がした。春支度をしている最中の芝生の土臭さの中に、花の薫りを嗅ぎ取る。まるでここだけが外の世界から切り離されてしまったかのような、どこか現実味を帯びていない閉塞感のようなものがそこにはあった。あんな所で何をしているのか。立ち止まって様子を眺めていると、こちらに気づいた様子で、彼の唇が「あ、せんせー」という形に動き、小さく手招きをされた。どうやらこちらに来いということらしい。渡り廊下と中庭を繋ぐ扉を開け、室内履きのサンダルのまま中庭の芝生に足を下ろす。足早に十歩ほど進んだところで、突如植木の茂みから黒っぽい何かが飛び出してきた。猫だった。
「ごめん、猫がいるって知らなくって」
「良かばい。あいつはこの辺の花壇さ荒らして、悪さばっかりしちゅう。お灸ば据えてやらにゃいけん。それに、見せたかったのは猫じゃなか」
そう言って彼は視線を落とし、足元を指差した。人差し指が指し示す先には地面が掘り返された跡があり、地中からはなにやらスチール製のクッキー缶のようなものが見えた。缶の蓋には、「10年後の◯年◯組へ」という文字が書かれ、蓋の隙間を塞ぐようにビニールテープが幾重にも巻かれていた。形状や蓋に書かれた文字から推測するに、この学校の卒業生が残したタイムカプセルだろう。缶の錆具合から見て、数年は前のものだと思われる。
「タイムカプセル?」
「そんようやなあ。あーあ、派手に掘り返して……」
何年後かは分からないが、いつかの未来でここに集った元生徒たちが、埋めたはずのスチール缶を見つけられずに肩を落とす姿を想像した。これは本来ならばそのときが来るまで日の元に晒されてはいけないものだ。再びそれを地中に返すべく、スカートの裾が土に触れるのも気に留めず膝をついて屈み、あたりに散らばった土の山を掻き寄せようと手を伸ばしたところで、横から伸びてきた長い腕がそれを制した。見上げると、無表情のまま首を僅かに振る彼の姿があった。「何をするのか」と意図を問うと、彼はこう答えたのだった。
「起こってしもうた過去は受け入れんばいかん。それがタイムカプセルの醍醐味ちゅうもんじゃなかと?」
“腑に落ちる”とはこういうことを言うのだろう。その言葉は、己の不器用さから起因する葛藤や嫌悪のひとつひとつに説明がつくような気がして、妙なくらい違和感なく私の胸の隙間にすとんと収まったのだった。教壇に立つ職に就いたことを幾度となく嘆いたが、こうして一人の生徒の門出を迎えることができるくらいには何とかやっていけている。明日もきっとまた、胸の隙間から陰鬱な気配を覗かせたまま、新しいワイシャツの袖に腕を通すだろう。その言い知れない齟齬が、ずっと気持ち悪くもあり、そして私の背中を押しているものの正体でもあったのだ。
「ああ、たしかに、そうかもしれない」と、彼の言葉が胸に収まる軌道のありのままを言葉にする。スチール缶を地面に埋めた生徒たちは、未来の自分がこれをまた手にすることを期待するのと同じくらい、そもそもこれを無事に掘り起こすことができるのかと気を揉むこともあったはずで、いつかの彼らがこの缶の蓋を開けることと、朽ちた姿を目にして肩を落とすことは、本来同等でなければならない。そしてそこには他者の介入があってはならないのだ。
数秒後、爪の間に挟まった土の欠片を払うと、立ち上がって校舎の方に足を踏み出した。
「あんまり遅くまで残らないようにね」
踵を返すさなか、千歳千里の「はあい」という間延びした返事を聞いた。それが、彼と言葉を交わした最後の日だった。
*****
通勤ラッシュが始まる少し前の電車内、通勤鞄を膝の上に乗せ、座席の布地に肌が馴染んでいく感覚に身を委ねていると、不意に「今日は駄目だな」という予感めいたものが胸の中をひしめきはじめた。今日はおそらく、職場には辿り着けないだろう。五年前よりは幾分かましになったが、半年に一度くらい、終点の田舎町に降り立ったあの日と同様、座席に体が張り付いて立ち上がれなくなることがある。こうなってしまうともう仕事に行ったところで木偶の坊になるだけなので、迷わず学年主任に連絡し、学校からなるべく離れたところへあてもなくふらふらと出掛けることにしている。普段ならば適当な駅で降りて折り返しの電車に乗るか、違う路線に乗り換えるのだが、ふと、例の終点の駅まで行ってみようという気になり、そのまま座席に深く腰掛けてゆっくりと目を瞑った。あの町には、五年前のあの日以来一度も訪れていない。閉じた瞼の裏側で、私は“みゆき”に成り代わる。鉛のように重たい体から、自分の魂のようなものだけを剥がしていく。薄い膜のようなそれが体から完全に離れると、置いてきた肉体が座席の真紅のスエード生地に飲み込まれていくのを見た気がした。そうして私はようやく“みゆき”として振る舞えるのだ。腕時計を外して鞄の中に仕舞い、ワイシャツの袖を捲ると、終点を告げる車内アナウンスに応えるようにすっくと立ち上がった。
外では蝉が暑さを嘆くようにじいじいと鳴き、その合間を縫うようにして聞こえる波のさざめきが心地良かった。五年振りに降り立った終電の無人駅は、相変わらず古びていて、じっとりと湿気を孕み、そして益々埃を被っていた。構内の壁一面をびっしりと埋め尽くすチラシやポスターの数々に、思わず息を飲む。“まるで現代版の御札だ”などと、当時も考えたものだ。天井に近いところにある小窓から差し込む光の帯の中で、土埃がちらちらと踊っている。そこだけを切り取ってみると、教会のステンドグラスから差し込む木漏れ日に似た神秘的な厳かさがあった。光の終着点に視線を滑らせる。待合スペースに置かれた三つの古びたベンチのうち、最もましな一脚の真ん中に、ラムネの瓶が置かれていた。誰かが置き忘れたのだろう。壁やベンチの霞んだ質感の中でつやつやと光を反射する水色のそれに、かつての自分が置き忘れたラムネの瓶を重ねた。よくよく観察すると、瓶底に溜まった炭酸の粒がぷくぷくと震えてる。まだここに置かれてからそう時間は経っていないようだ。再び壁一面を埋め尽くすチラシやポスターに視線を移す。四、五枚ほど幾分が新しい紙質が見え隠れしているが、これらを貼る者はいても剥がす者はいないのか、五年前のあの時と殆ど変わり映えしなかった。ふと、ラムネの瓶から一番近い壁に貼られたA4紙半分ほどの藁半紙が目にとまった。見覚えのある様式の上で、これまた見覚えのある字が踊るように筆を走らせていた。
“2年◯組 ◯◯番 千歳千里”
“第一志望校:◯◯大学”
忘れるはずのない独特な癖字。書かれている大学名は、彼が入学した国立大学だった。
五年前、彼の担任をしていた頃に結局最後まで回収できなかった進路希望調査の紙が、目の前の壁に錆びついた画鋲で留められている。画鋲の縁の鯖が藁半紙に写って茶色く変色している様から、随分と前からここにあったことが伺えた。彼はいつ、これをここに書き置いたのだろう。根拠はないが、何となく、あの日私が先に戻りの電車に乗った直後なのではないかと思った。ラムネの瓶底で炭酸の弾ける微細な音が、鼓膜をぴりぴりと刺激する。これがここに置かれてから、まだそう時間は経っていないはずである。一瞬、ある考えが脳裏をよぎった。今日、彼がこの駅に降り立ったのではないか、と。流行る気持ちを抑えるように鞄の取手をぎゅっと握り締め、駅を出ようと足早に歩みを進めたそのときだった。“ごおん”と、八時を告げる鐘の音が、構内に鳴り響いた。そういえば、ここは駅であり、町で一番高い建物であり、時計塔の役割も果たしていた。音は建物の壁や床を震わせ、そして振動に応えるように、壁一面に貼られたポスターやチラシがざわざわと会話するように震えた。その重厚な音は、私の脳幹に直接打ち付けるとともに、四肢をびりびりと内側から引き裂いていった。途端に、いつの間にか張り詰めていた緊張の糸が解け、ある光景がじわじわと脳内を染めていく。
“起こってしもうた過去は受け入れんばいかん。それがタイムカプセルの醍醐味ちゅうもんじゃなかと?”
乾いた中庭の片隅で、どこか寂しげな、けれども子どものような無邪気さをほんの少し覗かせた表情を浮かべながら、その生徒は静かに告げた。中庭を吹き抜ける風の冷たさも、芝生と土の匂いの入り混じった青臭さも、視界を遮る桜の花弁の一枚一枚すらも、はっきりと思い出すことができる。
彼の言葉に応えるように、私は駅の出入口から出しかけた脚を引っ込めた。同時に、いつの間にか身体中を駆け巡っていた熱の塊が、すっと退いていくのを感じる。一瞬だけ過った迷いを振り払うかのように、勢いのままにくるっと踵を返し、構内をまっすぐに突っ切って一直線に改札へ向かった。最中、視界の片隅でラムネの瓶を捉える。瓶底に溜まった気の抜けた炭酸の表面で、ビー玉の光模様が揺らいでいた。
改札を潜ると、ちょうど戻りの電車が発車するところだった。誰もいない車両に乗り込み、中央の座席に深く腰掛ける。鞄を下ろすのと同時に、どっと疲れが押し寄せた。鉄の車輪がレールを打ち付ける規則正しい音に耳を傾け、座席の布越しに車両の揺れを感じ取る。鞄から腕時計を取り出して左手首に巻きつけると、革のしっとりとした感触が肌によく馴染んだ。視線を上げ、窓の外に広がる景色を眺める。車窓を二つに分断するように一直線に引かれた空と海の境界線は、どこまでもどこまでも長く続いていた。
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