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夢みるけだもの

  • echo0607
  • 1 日前
  • 読了時間: 23分

「私、黒羽とだったらセックスできるかも」


カフェの一角、二人掛けの席。

正面で脚を組んで涼しい顔を開いていた黒羽が、盛大にコーヒーを吹き出した。


「うわ、きたな」


彼は慌てた様子で辺りをキョロキョロと見渡したのち、“お前なあ”と、呆れ顔で盛大なため息をついた。


「そういうこと、あんまり人前で言うもんじゃないぞ」

「いいじゃん、どうせ誰も聞いてないし」


聞かれていたところで、名前も知らない他人の会話なんて明日には皆忘れるのだから、どうだっていいのだ。

黒羽は改まった様子で「で、」と言い、脚を組み替えた。テーブルに下に収まりきらない長い脚が、私の視界の右側から左側に移動する。紺色のスラックスと革靴の間から、厚手のグレーの靴下が覗いていた。


「何でまたそんな突拍子もないことを思い付いたんだ?」

「黒羽としてみたら、何か変わるんじゃないかなって思ったの」


“やれやれ”と頭を左右に振る。彼が心底呆れているときにする仕草だった。

私と黒羽は、十数年来の旧知の仲だった。中学、高校、大学と同じ学校に進学し、社会人になってからも同じ会社で働いている。元々それほど仲が良かったわけではなく、大学までは「ただの同級生」くらいの認識だったが、入社式で顔を合わせたときには流石に二人して大笑いしてしまい、同期から「え、知り合い?」と驚かれた。式後に二人で駅前の居酒屋に入って日付を超えるまで語り明かしたのは、もう随分前のことだが、今でもはっきりと覚えている。以来、彼とは何かと行動を共にするようになった。体育会系の黒羽と、性格がはっきりしている私は馬が合うようで、まるで同性の友人のように気兼ねなく接することができる。どうやら彼はそこそこ女性から人気があるようで、社内の女性社員たちから彼との関係性について尋ねられることもしばしばあったが、私にとって黒羽は“黒羽”でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのだ。



「また言ってらあ」


口調こそ少々乱暴だったが、声色は柔和だった。彼は脚を組むのをやめてこちらに向き直り、テーブルに肘をついて身を乗り出した。“何度でも聞いてやるぞ”という意思表示のつもりだろう。


「そんなに未経験なのがイヤかね」


“理解できない”という風に目を伏せて頭を振る彼が口にした“未経験”という単語こそ、私の頭を悩ませているものの正体だった。私は二十数年の人生で、一度も性行為は愚か、まともな男女交際というものをしたことがない。高校時代に一度だけ、何度もアプローチを受けて根負けして交際した男がいたが、一ヶ月ほど経った頃に相手から別れを切り出された。きっかけは、初めて彼の部屋に訪れたときに、私の方からキスを迫ったことだという。相手と親密になるにつれて、いくらか情が湧くと同時に、彼とそういった行為を“してみたい”という欲求も芽生えるようになった。恋人なのだから抱いて然るべき欲求だろうと、当時の私はその変化を受け入れた。そして、半ば強引に相手の唇に自分のそれを押し当てたところ、“あんまりがっつかれるのはちょっと……”と、言葉を濁しつつも明確に拒絶の意を示されたのだ。

その一件をきっかけに、誰かのことを好きになるという強い感情の輪郭が曖昧になっていくのをはっきりと自覚した。その感覚は、今も私を付き纏って離れない。同時に、私の中に眠っていた怪物じみた欲求が芽吹いたのもこの頃だったように思う。


「焦んなくてもいいと思うぜ」

「焦るよ。私、もう二十五だもの。このまま二度と誰とも付き合えなかったらどうしようって」

「それは大丈夫だろ」


“俺が保証する”と彼は迷いなく言い切り、コーヒーを啜った。カップの縁の向こうからこちらを覗く瞳は自信に満ちていた。どこからその自信が湧いてくるのか。

テーブルにカップを静かに置くと、“ていうか”と、彼は切り出した。


「そうじゃねーだろ。お前が言いたいことは」

「……」

「さっきからまどろっこしいんだよ。全部吐き出しちまえ」


私の頭を悩ませているものの正体。

それは、まともな男女交際すらままならないというのに、一丁前に性欲だけは持て余しているという矛盾にあった。自分でない誰かの肌の質感を確かめてみたい、自分で触れるのも躊躇われるところに触れて、中を掻き乱して欲しいという欲求を、止めることができないのだ。そして己の欲求を自覚するほどに、何か自分が穢らわしいもののように思えて仕方がないのである。人一人満足に好きになれた試しがないのに、性欲だけは人並み以上にあつらえて、なんてはしたない人間なのだろう。そう自分を卑下することを辞められなかった。


“気持ち悪い”


気持ち悪いのだ、自分が。自分の体の“仕組み”がおかしいのではないかという疑念を晴らすことができない。どこかで何かを履き違えてしまったのではないかという不安が、今も私を付き纏って離さないのだ。


「誰でもいいからしてみたいって思うのは、そんなにおかしなことなのかな」


その問いに、黒羽は否定も肯定もしなかった。

私にとって、愛と肉欲は極めて曖昧なものだった。そして、このことを打ち明けているのは黒羽ただ一人だった。




三月も終わりに差し掛かった頃、来月転職する職場の同僚の送別会を開こうとのことで、歳の近い者が十数名ほど居酒屋に集うことになった。彼とはそれなりに仕事で関わる機会も多かったため、女友達数人を連れ立って参加することにした。そして、その飲み会の会場には黒羽の姿もあった。

最初こそ同僚との別れを惜しむ声で溢れていた飲み会も、夜がふけるにつれて、酔いの回った男性の同僚数名が下世話な話題を口にするようになる。女の同僚たちの中には、男らの下ネタに眉を顰める者も少なからずいたが、口では「やめなよお」と言いながらも乗り気な者もおり、次第に会場はその手の話題で持ちきりになった。こういうとき、話題にできるだけの経験を持ち合わせていない私は、決まって肩身の狭い思いをする。友人たちの影に隠れてちびちびハイボールの炭酸で唇を濡らしていると、不意に、同僚のうちの一人が、黙りこくっている私に目をつけたのか「そういえば、お前はどうなの?」と尋ねてきた。適当に誤魔化したり別の話題にすり替えるという術もあったが、それを選べるほどの余裕と器用さが、そのときの私にはなかった。嘘をついたって後から恥をかくだけだ。正直に経験がないことを告げると、一瞬だけ周囲の空気が冷え込んだのを肌で感じた。少し間を置いて、「え、お前、経験ないの?」「一度も?」とデリカシーの欠片もない言葉が口々に飛び交う。「あんまり人を好きになれなくって」と言い淀むと、女友達の数名は“わかるかも”と共感してくれたが、大半の者が“信じられない”というように身を乗り出して矢継ぎ早に質問を投げかけた。だからこの手の話は嫌だったのだ。動物園の見せ物にでもなったかのような、惨めな気分になる。「でもなあ、」と同僚の一人が、にやにやと不敵な笑みを浮かべて、こちらをちらりと一瞥する。一番初めにこの手の話題をしはじめた、少しやんちゃなタイプの男だった。


「俺は、処女ってちょっとキツイかも」


“だって、ナンカ重いじゃん”と、付け加える。

途端に、胸の内に押し留めていた熱を帯びた何かが、堰を切ったように喉元へと迫り上がるのを感じた。気持ち悪い。放っておいたら食べた物まで一緒に出てきてしまいそうだ。「お手洗いにいく」と告げて腰を上げると、談笑する友人達を掻き分けてその場を離れた。

向かった先は手洗い場ではなく、店の外の喫煙スペース。灰皿の脇に置かれた鉄製のベンチに腰掛け、背もたれに体を預けた。スーツの布地越しに感じる座面の冷たさが心地良い。長く、長く、息を吐き、吐いた分だけ吸い込もうと肺の奥を膨らませたが、身体中が強張って上手く息ができない。“はっ、はっ”と浅い呼吸を繰り返すうちに、熱いものが目尻をじわりと濡らした。“処女ってちょっとキツイかも” “だって、ナンカ重いじゃん”……頭の中に、だらしなく口元を歪める同僚の顔が棲みついて離れない。こんな風に惨めな思いをするのは、二度や三度のことではなかった。けれども今日はアルコールが回っているせいか、昂った感情を手放すことができない。“処女”というだけで、一体何故こんな辱めを受けなければならないのか。抱いて欲しいと頼んだわけでもないのに、どうして一方的に品定めされなければならないのか。アルコールで熱った顔を冷やすように、怒りと惨めさでぐちゃぐちゃになった顔を隠すように、額に手の甲を当てた。


「おー、いたいた」


聞き覚えのある声に顔を上げると、居酒屋の出入口から黒羽が顔を覗かせていた。「ごめん、すぐ戻る」と、腰を上げようとする私を「いいから」と掌を地面に数回降ろすジェスチャーで座らせて、彼は私の隣に腰を下ろした。


「冷えるな。酔い覚ましに丁度いいや」


そう言って彼はスラックスのポケットに両手を突っ込み、肩をすぼませて身震いした。くしゃくしゃの黒髪を揺らして、目をきゅっと瞑りながら頭を振るわせる彼を横目に、なんだか大型犬みたいだな、なんて微笑ましくなる。


「戻ってよかったのに」


彼は少し考える素振りを見せて「ううん」と唸った。


「なんか変な雰囲気だっただろ?俺、ああいうのヤなんだよ」


私の様子を案ずるわけでもなく、同僚の失言を責め立てるわけでもないその言い振りが、なんだかとても彼らしい。彼が慎重に言葉を選んでくれたおかげで、私は少しばかり自身の振舞いに自己嫌悪しないで済んだ。目の前では、飲食店や水商売の店のネオンや看板が、少々目障りなほど色彩に富んでいた光を発していた。繁華街を歩く人々は、厚手のコートやダウンを着込み、まだまだ冬の装いを手放せていない。路地裏を通ってきたビル風が、通りに面した大衆居酒屋の引戸にぶつかってガタガタと音を立てる。風に乗って自分の体に染みついた居酒屋特有の焦臭い匂いを嗅ぎ取った。身の回りの色彩や音、匂いに注意を向けられるくらいには、冷静になっていた。


「黒羽も、処女は重いって思う?」


そう尋ねると、彼はいつしかカフェで爆弾を投下したときと同じように、目をまんまるに見開いてのけぞった。しかし今度はすぐに落ち着きを取り戻した様子で、両膝に肘を置いて背中を丸め、じっと地面を見つめた。黒羽は今、懸命に言葉を選んでいる。


「重いっつーか、その、なんだ?俺ら男にとって初体験は、そりゃあ“憧れ”だけどよ、女はそう簡単な話でもねーだろ。めちゃくちゃ痛いって話も聞くし……」


“痛い”という単語を発する瞬間、彼は本当に痛そうに顔をぎゅっと顰めた。黒羽が痛い思いをするわけでもないのに、変なの。


「だから尚の事、最初の相手は信頼できる奴じゃないと、帳尻が合わねーだろ。“重い”っつーか“責任重大”ってカンジだな」


“帳尻が合わない”

何とも彼らしい言い回しだった。


信頼できる相手、か。


「そういう意味じゃ、私にとって黒羽は一番信頼できるんだけどなあ」

「そりゃどーも」

「ねえ、黒羽」

「うん?」

「私とセックスしてほしい」


気がつけばそんな言葉が口から溢れていた。

黒羽は、先ほどよりも一層目をまんまるに見開き、何か言いたげに口をぱくぱくさせて硬直している。彼がこんな風に狼狽えているところを見るのは、このときが初めてだった。しばらくの間「ああ」とか「えー」とか言葉にならない声を発したのち、言葉が見つからなかったのか、「お前なあ」と、少し怒ったような口調で唸った。項垂れる彼の後頭部でつむじが巻いているのを、アルコールに浸って熱を帯びた目でぼんやりと眺める。広い背中が今は少しばかり自信なさげに見える。合わせた両手の親指に顎を引っ掛けて考え込む黒羽は、何というか、様になっていて、“色っぽさ”みたいなものすら感じた。こういう姿を見るたびに、彼と“してみたい”という気持ちが湧き起こるのだ。ただそこに恋愛感情が無いという点が異質なだけで、私は彼を本能的に求めているのかもしれない。一方で、私を慮って生真面目に言葉の取捨選択をするその行為に目を向けると、この男とは絶対に“してはならない”“したくない”と警鐘を鳴らすもう一人の自分がいるのも確かだった。両極端の情緒の間での往来は、だんだんと私の頭から判断力を遠ざけてゆく。


「いいのか?」


黒羽の真剣な眼差しと視線がかち合った。


「え?」

「本当に俺でいいのかって聞いてんだ」

「あ、うん」


彼は大きく溜め息をつくと、「わかった」と深く頷いた。それは、つまり、“そういうこと”なのだろうか。てっきり黒羽は“友達のお前とはできない”とか言うんだと思っていたから、少し驚いた。


「え、ちょっと」

「何だよ」

「本当にいいの?」

「何でお前に聞かれなきゃなんねーんだ」

「だって」


“この間は断られたから”と、歯切れ悪く言葉を濁し、目を逸らして俯く。勢いで自分から言い出したは良いものの、後から躊躇が追い付いてきた。二の足を踏んでいると、私の当惑する様子が乗り移ったかのように、黒羽も「そりゃあ、好きな相手とすんのが一番だとは思うけど……」と少々言葉に詰まっている様子だった。


「それができないってんなら仕方ねーだろ。お前が今日みたいな思いをしないで済むんなら、俺なんかで良けりゃあ……ってのが九割。残りの一割はーーー」


“下心”と彼は言った。

その言葉を聞くなり、なんだか急に力が抜けて頬が緩んでしまった。「ふはは」と息を吐いて笑うと、彼は「何だよ」とぼやいて頭の後ろを掻きむしった。多少なりとも邪な動機があったって構いやしないというのに、わざわざ馬鹿正直に口にだしてしまうところが、かえって彼らしくて心地良かったのかもしれない。迷いは気持ち良いくらい消散して、目の前の景色が開けていくようだった。きっと私も黒羽もアルコールのせいで少しおかしくなっているのだと、そう思うことにした。

「行くぞ」という声と共に立ち上がる黒羽。差し伸べられた手を取るべきか、一瞬だけ躊躇して、上げかけた手を引っ込めた。


「先行っててよ。会社の人に見られたら不味いでしょ」



華金を楽しむ人でごった返す繁華街を歩く足取りは、雲の上を歩いているかのように軽い。週末の夜という時間がそうさせるのか、それともこれから私を待ち受ける出来事のせいなのか、もはや区別などできなかった。感じたことのない浮遊感にとらわれぬよう自制心を握り締め、少し先を歩く黒羽と一定の間隔を保って歩く。人混みに紛れる彼の背中はいつもよりほんの少し小さく見えて、一瞬でも気を抜いたら見失ってしまいそうだ。


一本奥まった細道に立ち並ぶホテルの一室に入ると、先ほどとは打って変わって肺の中の空気がずしりと重くなった。これから起こることに対して、少なからず不安めいたものを抱いていることを自覚させられる。そんな私の異変を感じ取ってか、黒羽は普段と変わらない口調で「先、シャワー浴びてこいよ」と言って脱衣所の方を一瞥した。きっとこういうところに来るのは今回が初めてではないのだろう。

その後のことは、頭の中に霞が掛かったみたいに記憶が曖昧だった。脱衣所で服を脱いで、こういうときは髪は濡らさない方が良いとどこかで聞いたななどと思いながらシャワーの水を体に浴びせた。ベッドに腰掛けて黒羽を待っていたら、気がつけば指先一つ分の隙間を設けて、彼が隣に座っていた。触れてしまいそうなほど近くに、彼の息遣いを感じる。湯上がりの肌の熱気と湿度に現実を突き付けられ、頭の中の霞が晴れていく。あれ、私、普段黒羽とどんな風に接していたっけ?と、一瞬彼との距離感が分からなくなった。


「くろば……」


何か言葉を発しなければと口にしたその名前は、彼の唇に掠め取られた。黒羽の唇、意外と柔らかいな。なんて、妙に冴えた頭で考えているうちに、背中に回された腕の熱さが遅れてやってくる。私、今、黒羽とキスしてるんだ。そう思ったら、シャワーを終えてから一度も前髪を直していないだとか、化粧が崩れていないかだとか、そんなことが気になり出す。うっすら目を開けてみると、睫毛の隙間から黒羽と視線が重なった。“ぬるり”という感触と共に舌がねじ込まれ、口内を弄る。初めて体感する粘膜同士の接触は、ほんの少しアルコールの匂いを孕んでいた。


あっという間に服を脱がされ、剥き出しになった肌の上を、黒羽の骨ばった指が、皮膚の質感を確かめるようにおそるおそる触れる。気持ち良さはない。けれども拒絶するほどでもない。言うなれば、蛸か何かの軟体動物が体の上を這っているようだった。次第に、触れられた場所の感覚が研ぎ澄まされていく。空調が肌の上を撫でる軌道すらありありと感じ取ることができる。普段自分でしているものより太くてごつごつした指が、私の“中”に入ってくると、少しの痛みとともに“あ”と高い声が漏れた。声は、次第に湿り気を帯び、媚びるように語尾を湾曲させてゆく。躊躇いがちだった指先の動きが、喘ぎ声に呼応するように大胆になっていった。内腿の柔らかい部分に、硬いものが当たった。スラックスの布地越しに存在を主張する“それ”の存在を理解するまで少しの時間を要したのは、私がまだ男性器の形を知らないからだった。

太腿に当たるそれに触れて「硬くなってる」と伝えると、彼は自身のそれを一瞥して、少しばかりばつの悪そうな、照れ臭そうな何とも言い難い表情を浮かべた。別に、至極当たり前な生理的反応なのだから、恥ずかしがる必要もないのに。


「気持ちよくしてあげようか」


生身のそれに触れたことすらないというのに、何度も異性と交わったことがある女が発するような言葉を口にする。自分でも少し気恥ずかしくなったくらいだ。彼が一瞬だけたじろいだ隙を、私は見逃さなかった。一気に形成逆転し、彼のスラックスを下ろし、ボクサーパンツに手をかける。


「おい、待っ……」

「いいから」


“やってみたかったの”

そう言って彼のものを口に咥えた。黒羽は驚いた様子で私を引き剥がそうと身じろぎしたが、「お願い、させて」と懇願すると、おとなしく私を受け入れた。


最初は嘔吐きそうになりながら不器用に頭を上下させるだけだ動きだった。慣れてくると、コツを掴んで奥まで咥えられるようになる。舌の奥の方に力を入れて舌根を窪ませると、そこに先端の突起が収まって吐き気を催さなくなるのだ。ぐっと一層喉奥まで咥え込むと、頭上で“はっ”という小さな吐息が聞こえた。上目遣いで表情を伺うと、口元に当てた拳の向こう側に、少し苦しげに眉根を寄せた、初めて目にする彼の姿があった。私の一挙一動に反応するかのように荒くなる吐息に気を良くしていると、次第に私の後頭部に添えられた黒羽の右手に力が入っていく。舌根を硬くするのと、喉奥にそれが突っ込まれるタイミングが僅かにずれ、反射的に顔を仰け反らせて咳き込んだ。


「わ、悪い」

「いいよ。もっとして」


「いいのか?」という問いに頷く。

再び彼の股座に顔を埋めると、黒羽は私の頭の後ろに手を回し、自身の鼠蹊部に押しつけたり離したりを繰り返した。最初は遠慮がちだったその動きも、結構奥まで咥えさせても大丈夫だとわかるなり大胆になってゆく。長いストロークで前後に揺さぶられ、気を抜いたら嘔吐いて黒羽のそれを噛み切ってしまいそうだ。ただ、苦しくないぎりぎりのところで手加減してくれているようで、慣れてくると黒羽の様子を薄目で観察できるくらいになった。吐息の合間を縫ってくぐもった短い声が聞こえ、私の頭を掴む右手に力が籠るのを静止する代わりに、空いた方の手が掴んでいるシーツの皺の数が増えていった。シーツを掴む腕の筋肉の上で血管が隆起する様を、視界の隅で捉える。

“うっ”という短い唸りと共に、彼は私の頭をぐいっと引き離した。もう一度咥えようと身を屈めると、「もういい」と待ったがかかる。


「気持ち良くなかった?」

「 いや……」


“もう少しで出そうだったから”と彼は言った。


「俺がイッたら先ができないだろ」



私の中に、黒羽が入ってくる。

膣壁から内臓を抉るような圧迫感に、自分のものではない異物が挿入されていることを実感した。耐え難かった痛みは、次第に甘い痺れに移り変わり、体の動きに呼応するように揺さぶられる意識の中で、汗ばむ肌と肌が触れ合って引き攣る感覚だけが、かろうじて私を現実に留めおく。顔を見られぬよう口元に寄せていた右手首をを掴まれ、組み敷かれると、彼の顔を真正面から捉えた。こちらを真っ直ぐに見下ろす黒い瞳。開かれた瞳孔は、まさしく獣のそれだ。黒羽は今、私に興奮しているんだ。衣擦れの音と浅い息遣い、そして自分のものとは思いがたい媚びるような喘ぎ声が、耳の中でぐるぐると掻き混ざって騒がしい。苦しげに眉根を寄せて、どうにかして内なる衝動性を留めおこうとするその顔つきに、彼の“理性”を垣間見た。


“黒羽はこんな風に女を抱くんだ”


一瞬だけ、この顔を他の誰にも見られたくないなどと思ってしまった。


黒羽の大きな手が、汗で額に張り付いた私の前髪を透いた。額に僅かに触れた指先から、電流のような何かが“びりり”と伝わってきたような気がして、脳髄がひりつく感覚に頭が冴えていく。瞼の皮膚の網目で汗の粒が煌めき、“アイシャドウのラメみたい”だなんて思っていると、彼は私の頬に手を当て、浅い呼吸の合間を縫って“ふ”と口元を緩めた。どうしてそんな顔をするのだろう。答えを見つけるより早く、私は気づいてしまった。黒羽の気持ちに。


目の前を覆い尽くす彼の上半身の向こう側で、天井の照明が煩わしいくらいに白光りしている。そういえば、電気を消していなかったことに気がつく。逆光で黒羽の顔に落ちる影が濃く色づき、彼の表情を分からなくさせている。何だか、黒羽が遥か彼方にある光源の方にいるみたいだ。


“眩しいなあ”


カフェの一角、二人掛けの席。

正面で脚を組んで涼しい顔をする彼。


“眩しいなあ”


眩しい。あのときも、確かに私はそう思ったのだ。


“また言ってらあ”と、私の頭の中の彼は、呆れ顔で頭を左右に振った。また言ってる。そうだね、黒羽にとっては瑣末なことだったのかもしれない。それでも彼は、私の頭を悩ますそれを蔑ろにはしなかった。私はそれが嬉しかったのだ。

黒羽春風という男は、眩いほどに真っ当で、誠実で、そしてほんの少しだけ下心も持ち合わせているという点で平常だった。それは、まったくもって私とは対極にある輝き。そのことに気付くや否や、先ほど一瞬だけ自分の中に湧いた独占欲をひどく後悔した。これはきっと、抱いてはならない感情。

愛と肉欲は、私にとって大別し難いものだった。そのこと自体は、もはやとっくに瑣末な問題になっていた。今の私なら、自身の中で融和していく情動と欲求を“そういうものだ”と容易に受け入れることができる。けれども黒羽春風という男は、“愛”と“肉欲”の、そのどちらでもないところにいた。こうなって初めて、私はそのことを自覚したのだ。私はもしかしたら、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。



体の動きに合わせて、彼の肩や首元の輪郭を縁取る汗の粒が鋭く反射し、身じろぎするたびに私の眼球を貫いた。痛みに似た鋭い感覚に、思わずぎゅっと目を瞑ると、目尻からじわりと温かいものが滲み、こめかみを伝って髪の生え際に吸い込まれていった。


「え、うわ!悪い、痛かったか?」


驚いた様子で勢いよく上半身を起こし、体を離す黒羽。私の目尻を伝ったそれを、痛みによるものだと思ったらしい。


「違うの、眩しくって」

「ああ……電気、消してなかったな」


繋がったままの状態で、私の頭上にあるヘッドボードに備え付けられた沢山あるボタンを手際良く押して照明を落とす。“やっぱり、こういうところに来るのは初めてじゃないんだ”などと考えるうちに、私の中の黒羽のそれが、だんだんと小さく萎縮していくのを感じた。どうやら一旦集中が途切れてしまったらしい。先ほどまで私を照らしていた鋭い眼光は形を潜めて、そこには普段の黒羽の姿があった。


「萎えちまった」


私の中から、ほんの少しの余韻を残して、黒羽がいなくなる。一回り小さくなったそれは、本当に先ほどまで私の中を掻き乱していたものなのかと疑いたくなるほど、形も大きさも違っていた。もう一度勃たせるから少し待ってくれという彼を「もう大丈夫だから」と制すと、彼は再び「悪い」と謝った。


「先、シャワー浴びてこいよ」

「後で良いよ。黒羽、汗びっしょりじゃん」


「お言葉に甘えて」と言って、バスタオルを掴んで浴室へ向かう黒羽の背中を見送り、汗ばんだ肌がシーツに沈んでいく感覚に身を委ねる。



「いつから私のこと好きだったの?」


ホテルの一室、二人掛けのソファ。

ベッドから少し離れたところにあるソファにどっかりと腰を下ろしてテレビ画面を眺めていた黒羽が、盛大に水を吹き出した。「お前なあ」と悪態をつき、ベッドにゆっくりと歩み寄って私の隣に寝そべる彼を目で追う。


「高校んときからだよ」

「え、うそ」

「何だよ」

「だって、黒羽、高校のとき彼女いたじゃん」


黒羽とは、学生時代それほど接点が多い方ではなかった。「ただの同級生」というのが、私の中での彼に対する認識。だから、てっきり彼が私に好意を向けるようになったのは社会人になってからか、どんなに早くても大学あたりからだろうと思っていた。それもそのはず、少なくとも黒羽には高校時代に付き合っていた彼女がいた。彼の隣を並んで歩く小柄な女子生徒の姿を、今でもよく覚えている。

黒羽はあまり自分からその手の話題を口にしないため、高校時代の彼女とどうして別れてしまったのだとか、それ以降恋人ができたのかだとかは知る由もなかった。ただ、ホテルに入ってからの振る舞いから、少なからずこういうことをするのが初めてではないことは、容易に予想がつく。彼が私に好意を抱きながら、彼女あるいは彼女たちとどういう気持ちで行為に至ったのか、考えてみても答えが出ることはなかった。


高校時代の彼女の話題が出ると、途端に彼は「そりゃあ、いたけど」と歯切れ悪く言い淀んだ。何か言いだげに、そして言いにくそうに、顔を歪めて考え込む。


「言っとくけど、アイツのことはちゃんと好きだったからな。良い奴だったし、付き合いも長かったし……っていうのが九割」


残りの一割が何であるかを、彼は口にしなかった。

代わりに、初体験の感想を聞かれた。「股ぐらに穴が空いたみたい」と答えると、彼は“何だそれ”と言って掠れた声で笑った。乾いた笑い声の後、しばしの沈黙が流れる。先ほどまでの情事を何処かに置き忘れたかのような、ひやりと冷たい沈黙。


「黒羽」


名前を呼ぶ。何度も呼んだ、最愛の友人の名。

彼の名を口にしたときから、覚悟は決まっていた。手に持ったスマートフォンを伏せて枕元に投げ出し、体を起こして黒羽をしっかりと見据えた。今から大事なことを話すという意思表示のつもりだった。こうなってしまったからには、私は彼から逃げてはいけないのだ。

少しの沈黙を置いて、何かを悟ったような顔で、黙ってこちらを向く彼。


「ごめんね」


“お前が謝るなよ”

彼は枕に顔を突っ伏した。綿の布地に吸い込まれ、くぐもって聞こえたその声は、少し震えていた。



日の出から二、三時間ほど経った頃、私たちはホテルを出た。結局昨夜は布団にくるまったものの、一睡もできなかった。初体験を終えたことよりも、黒羽との例の一件が重く伸し掛かり、私の体は眠ることを拒絶した。

ホテルのエントランスを出ると、水気を含んだアスファルトがら立ち昇る、土と油が混じったような匂いが鼻をついた。どうやら昨晩は雨が降ったようだ。出入口に植えられた植木の葉の上で、無数の水滴が朝日を眩く反射していた。朝露の湿度を纏った風がコートの中に入り込み、体温を奪う。風は、草とも花とも言い難い青臭さと共に、アスファルトの匂いと混ぜこぜになって、ここが外の世界であることを一層実感させた。

大通りに出ると、昨晩とは打って変わって、夜の顔をどこかに置き忘れた繁華街の姿がそこにあった。光の灯らなくなった軒先の看板が、抜け殻のように路肩に置き去りにされている。所々にできた水溜りが、晴天の空模様を静かに反射していた。朝露を蓄えた街路樹がずらりと立ち並ぶその真ん中を、私たちは黙って歩いた。

シャッターが開く音がして、どこからかコーヒー豆を煎る匂いが漂う。それを合図とするかのように、腹の虫が“ぐう”と鳴いた。昨晩眠れないほど気が滅入っていたというのに、私の体は生きることを渇望していた。熱々のコーヒーが飲みたい。少々焦げ目がつくくらいのカリカリのトーストにたっぷりのバターを塗って、口いっぱいに頬張りたい。理想の朝食のメニューに想いを巡らせるうちに、気がつけば足取りは軽やかになっていった。そうだ、せっかく早い時間から繁華街にいるのだから、今日くらいは贅沢にカフェで朝食を取ろう。たしか、駅前の交差点を左に曲がって少し歩いたところに、新しくできた純喫茶風のカフェがあったはずだ。


「黒羽」


交差点の信号待ち、駅の方へ向かおうとする黒羽を呼び止める。

“私、寄るところがあるから”と、行き先を指差すと、彼は怪訝な表情を浮かべた。こんな朝早くから何の用だ?とでも言いたげだ。


「朝御飯、食べにいこうかなって」


“お腹空いちゃって”と言って鳩尾を摩る。

黒羽は少し間を置いて「そうか」と言い、“俺はこっち”と駅の方向を指差した。まっすぐ自宅に帰るという意味らしい。少し意外だった。普段の黒羽なら「俺も腹減った」とついてくるか、「お前なあ……」と呆れた顔をするだろうと思っていたからだ。そんな彼の反応に侘しさを感じつつも、意識は既に別のところに向いていた。頭の中は、熱々のコーヒーとバターたっぷりのトーストでいっぱいだ。


左折の信号が点滅する。「じゃ」と短い挨拶だけを残し、カフェのある方向へ駆け出した。彼の方を振り向くことはなかった。今日は、うんと苦いコーヒーを飲みたい気分だ。

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