テストの成績も、両親からの期待も、将来のことも、全てを急に投げ出したくなって、帰りの電車を途中下車した。特に理由もなく選んだそこは、毎日利用している路線だというのにも関わらず、名前すら知らない田舎の駅だった。知らない駅に降り立ち、知らない名前の書かれた看板を茫然と眺める私の姿は、まさしく迷える子羊そのものだったであろう。私はそこで初めて、自分が人生という長い長い道に迷っているのだと気が付く。気が付くと同時に、そんなことはどうでも良くなった。私は今、自分の人生とは何ら関係の無い場所にいるのだ。
辺りは真っ暗だった。家に帰れば電気の付いた明るい部屋とふかふかの布団が待っていることを考えると、なにも今でなくても良いのにこんな時間帯に途中下車してしまったことを少しだけ後悔したが、もはや次の電車を待つ気も起こらなくなっていた。このまま改札を出てこの知らない土地をぶらぶらと歩き回るのも、悪くない。
辺りを見回す。他人の気配を期待した訳では無かったが、そこで目にしたものに私は驚きと共に少しの安堵感を覚えた。人が、いた。あり得ないくらい背の高い男が、駅のホームを改札に向かって滑るように滑らかに歩いていた。からん、ころん。男が履いている鉄下駄の音が、夜闇に紛れこむのを拒む様に浮き上がって聞こえる。不思議だ。駅に降り立って暫くの時間が経過しているというのに、私には今この瞬間までこの音が聞こえていなかった。不意に男が私の存在をその視界に捉え、足を止めた。下駄の音が鳴り止む。視線がぶつかった。その瞳は、夜闇と同じくらいの漆黒をしていた。
「驚いた。こげな時間に人がおるとは思っとらんかったばい」
聞きなれない訛りでそう話す彼の様子は、全く驚いていなかった。驚いた。それはこっちの台詞だ。「何ばしよっと?」と尋ねる彼に、今一度、それはこっちの台詞だと思わずにはいられなかった。きっと彼も私と同じことを考えている筈なのに、自分のことは全て棚に上げて、こんな時間、こんな場所にいる人間の存在に驚いて、そして彼が何をしようとしているのか、気になった。人生の路頭に迷って途中下車した人間が、一辺に、しかも同じ場所に現れたとでも言うのか。まさか。そんな馬鹿げたことがあってたまるか。迷える子羊は私一人で充分だ。
彼の問いには「特に、何も」とだけ答えておく。嘘ではない。私は特に何の目的もなくここに降り立ったのだから。
「あんたは、何してるの?」
「特に、何も。ぶらぶらしとる」
「見れば分かる」
じゃなくて、何でこんなとこぶらつこうと思ったの、と問う。「なあんも、目的なんかなかよ」と間延びした返事と共に男は背伸びした。もともとありえないくらい高かった背丈が、さらに天まで届きそうなほどに伸ばされる。背伸びをしながら「電車の座席は窮屈ったい」と、くぐもった声で呟く彼を見ていたら、その姿が何だか寝起きの猫の様に見えて、急にこの男が可愛らしく思えて仕方なくなった。ただし、超特大サイズの猫であるが。
くしゃくしゃの黒髪が、風に揺れる。こうして見ると、彼という存在は、夜闇にぽっかりと穴を空けて、そこに居座っているかの様にどこか浮世離れしていた。例えるならば、彼が着ている衣服の皺の隅々までが、まるで彫刻の様であった。美しい、生きた彫刻だった。それを見て、彼は、私の様な成績やら両親の期待やら将来のことやらに縛り付けられている人間とは、正反対のところにいるのだと直感した。だから私は彼のことを「浮世離れしている」などと感じてしまうのかもしれない。だとしたら、今の彼の目に私がどんな風に映っているのかも容易に想像出来た。風が、再び彼の髪を揺らした。それに合わせて、私の心臓も揺れた。今、あちこちでホームの地面を照らす電灯の最終地点は全て、彼のところにある。
「お前さん、この町の人か?」という問いに首を横に振る。「俺も、違うったい」と彼は言った。「お前さん、これから何処か行くと?」という問いにも、首を横に振る。「俺も、行くとこなか」と彼は言った。「どうね、俺と一緒にぶらぶらせんね?」という問いにだけ、私は頷いた。そして、差し出された手を黙って握る。名もなき土地で、名もなき青年に、名もなき恋をした。
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