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全部、知ってる

静寂の中に一つの溜息が落とされた。


「何度目だ?」


「分かんない」


二度目の溜息がこぼれそうになるのを押しとどめながら「だから言っただろう、ろくな男ではないと」と呟く彼に、私はこくりと頷くしか術を知らなかった。

もう何度目になるか分からない。顔が多少良いくらいしか取り柄のない様なろくでもない男に惚れこんで、心か身体か、或いはその両方をぼろぼろに傷付けられた挙句、こうして彼の元へ泣き付くのが何度目になるのか。私にはすっかり分からなくなってしまった。

いつだって私は、厚く塗りたくった化粧をぐしゃぐしゃに乱れさせ、眼の下に異様に目立つくまを拵えて、見るも無残な姿で彼の家の呼び鈴を鳴らす。そして彼は、それが深夜だろうが早朝だろうがいつだってそんな私を室内へ招き入れ、温かい紅茶を出してくれるのであった。それはもはや、単なる同情やお節介で成せる業である筈が無く、彼が少なからず私に好意を抱いていることには薄々感づいていた。いや、この際はっきり言ってしまうと、彼は私のことを確かに好いていたし、私はそれを知っていた。知っていながら、こうして他の男に付けられた傷を彼の元で癒すという行為に及んでいるのだ。その恋心を苛酷なまでに踏み躙る私が、私を傷付けた輩よりもどうしようもない人間であるということを、彼は知っているのだろうか。

出された紅茶は一口も手を付けられないまますっかり冷めきってしまい、ティーカップの代わりにずっと握りしめていたハンドタオルはごわごわしていて掌に不快な感触をもたらした。


「まったく……」


いつもは黙って私の話を聞くだけだった彼が、今日という日はどこか違っていて、幾度も幾度も溜息や愚痴をこぼすものだから、私は何とも言い様の無い不安を覚えた。とうとう彼も痺れを切らしたのかもしれない。もしそうならば、私は今後一切、変な男にのこのこ付いて行く様な馬鹿な真似は止めなければならない。実際のところ、彼に慰めて貰った後は「もう同じ過ちを繰り返してなるものか」と毎回と言って良いくらい心に誓うのだが、私には彼以外に頼るところが無いので、その彼が私を見放したというのならば、今回ばかりはその誓いとやらを実行しなければならない。だが、私にはそれが出来る自信がなかった。

ごくりと固唾を飲んで次の言葉を待ったが、彼が発したそれは私の予想を遥かに凌駕していた。


「心配する必要はない」


と、彼はこう言ったのだ。「何を」と問えば、すかさず返事か返ってきた。


「俺はお前を見捨てたりなどしない」


「…あ、」


呆ける私にふっと笑いかけ、「お前の考えていることなど、十中八九、そんなところだろう」と言う彼を見て、柔らかな弧を描くその口元がゆらゆらと揺れてぼやけていくと思ったら、今までせき止めていたものががらがらと音を立てて崩れていく様に、涙がこぼれていた。乱れた化粧の上を滑る涙で汚れた顔がさらにぐしゃぐしゃになるのにも構わず泣き続ける私の両手にはハンドタオルが握られており、それは本来の役割を全く果たしていなかったが、そんなことはどうでもよかった。ただ、「お前は本当にどうしようもない女だ」と呟く彼の声が妙に頭の中でじんじん響くと思ったら、それは私が彼の腕の中にいるからであるということに少しだけ驚いて、そしてそれさえもどうでもよくなってしまった。


「そんなお前に惚れてしまった俺は、もっとどうしようもないのかもしれないな」


このどうしようもない男に惚れてしまえば、今度こそ私は幸せになれるのかもしれない。

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