世界の終焉で、君は
- echo0607
- 2022年6月19日
- 読了時間: 5分
彼女は、いつもの様に俺の家に何の前触れも無くやって来て、いつもの様に鞄の中から派手なパッケージの袋に包まれたジェリービーンズを取り出し、そしていつもの様にその中身をガラステーブルの上にぶちまけた。無色透明だったテーブルが一瞬にして目の冴える様な鮮やかな色で華やぐ。
毒々しい色を放つそれらの中から彼女は無作為に一つを選び、指先で弄び、転がし、そして口の中へと押し込んだ。それが口内へ侵入するや否や、彼女は噛んだり味わったりする素振り一つ見せずに一言「不味い」と言う。その一連の動作も、いつものことだった。
テーブルを挟んだ向かい側で「不味い不味い」と言いながらジェリービーンズを口へ運ぶ彼女を見て、「不味いなら食べなければ良いだろ」と、何度目になるか分からない問いを投げ掛ければ、彼女は決まって「不味いから食べるのよ」と、これも何度目になるか分からない返事を律儀に返すのだった。この問答までが云わば二人にとってのお約束の行為であり、この後は毎回違った内容で他愛の無い会話が進められる。
彼女の「不味いから……」という言葉に「どうして」と聞き返すことをしないのは、かつてその問い掛けに彼女が返した返事にもたらされた衝撃が、開いた口が塞がらないなんてものではなく、あんな度肝を抜かれる様な思いを味わうのは一回きりで充分だと思うからである。彼女は「不味いから食べるのよ」と言い、その根拠に、
「馬鹿ね、精市は。不味いから食べるのよ。人間っていう生き物は皆美食家で、美味しいものを求めて研究に研究を重ね、そうして出来上がったものを美味しい美味しいと銘打って売り出すでしょう?そして皆それを美味しい美味しいと言って食べる。でもね、精市。私に言わせたら、世間に行き渡ったそんなありふれたものに食べてやる価値なんてこれっぽっちも無いし、美食家であろうとする人間の本能的とも言える意志に従ってやる義理だって全く無いの。そんなものよりも、美味しいものが求められる中で偶然だか手違いだかよく分からないけれど出来てしまった不味いものの方が、ずっと稀少価値があると思うの」
だから私は不味いもの敢えて口にするのだと、彼女はそう言ったのだ。
彼女は大衆意識に飲み込まれて自分を見失うことを何よりも恐れる人間だった。平たく言えば「普通」であることを拒絶していると、そういうことになるのだが、彼女のそれは十代の若者が没個性にならないために身なりや言動に気を遣って「普通」を廃絶することとは決定的に違っていた。そして彼女はもっと次元を遥かに凌駕したレベルで、もっと強靭な意志でもって人間の本能をも含んだ根底から「普通」を嫌悪しており、その意志の強さは彼女に最も近しい存在である俺ですら計り知れない程であった。
テーブルの上に乗ったジェリービーンズの群れの中から彼女の指によって弾かれ、こちらに向かってころころと転がって来た赤い一つを、動きが止まったところで俺は指先で摘まんで口へ運んだ。彼女は赤いジェリービーンズを決して口にしない。何故かと問えば「これはまだましな方だから」と言い、その処理をするのはいつも俺だった。
俺は時折彼女の言動に恐怖すら感じることがある。かつて、綺麗だからと言って花瓶に生けられた百合の花の花弁を全てむしり取ったり、要らない物だからという理由で教科書を水浸しにした彼女を見たときに感じた、あのぞっとする様な感覚は、テーブルの上にばらまかれたジェリービーンズの食べ物とは思えない色鮮やかさに一瞬目を疑うそれに、酷く似ていた。
口の中で転がるジェリービーンズを噛むと、強烈な甘味が口一杯に広がり、その甘さに不快感を覚えながら思った。彼女は狂っている、と。
「ねえ、精市」
不意に、彼女は何かを思い付いた様に言った。
「何だい」
「もしも、の話よ」
「うん」
「もしも、明日世界が滅びて地球上の人間は全て死ぬと分かったら、精市は、どうする?」
唐突過ぎる質問だったが、こんなことは日常茶飯事ですっかり慣れてしまったので驚くことはなかった。少しの間考える素振りを見せると、二つ目の赤いジェリービーンズが転がって来た。それを指先で弄びながら、今一度彼女の問いにどう返事をしようか考える。
「そうだね。俺は、特に何もしないんじゃないかな」
「……何も?」
「そう、何も。いつもと同じ様に学校に行って、授業を受けて、部活に励んで、丸井達とお喋りなんかしながら、そうやって普段通りの生活の中で静かに死を待つよ」
「ふうん」とつまらなそうに相槌を打つ彼女は、自分で言い出しておきながら果たして俺の話を聞いているのか定かでなく、心此処に有らずという様子でジェリービーンズの山と睨み合って次なる餌食を選んでいた。
「私はね……」
黄緑色の一つをつつきながら彼女は次の言葉を紡ぐ。
「私は、世界が終わる前に自分から手首をかっ切って死んでやるわ。決まった運命に翻弄されて他の人間と同じ様に死ぬなんて、癪だと思わない?」
そう言って彼女は左の掌を返して見せた。
カーディガンの裾から覗く彼女の細い手首には、相当古いものであるがために大分薄れてしまってはいるが、刃物の通った痕が一本、手首の端から端を一文字に横断しており、その美しいとも言え得る真っ直ぐな直線はそこに躊躇や怖れというものが存在していなかったことを物語っていた。
手にしていた赤いジェリービーンズをそれに重なる様にかざしてみて、この傷痕が再び開かれ、そこから溢れ出す真っ赤な血にまみれて命の終焉を迎える彼女の姿を見てみたいなどと考える俺は、目の前にいる彼女なんかよりもずっと狂っているのかもしれない。
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