ヴィーナスベルト
- echo0607
- 1 日前
- 読了時間: 24分
※「秒針の裏側」の千歳サイドのお話です
“熱帯魚のような人だった”
学校という名の箱庭の中を、低いヒールの踵を静かに打ちつけてゆったりと歩くその人の姿は、まるで水槽の中を泳ぐ熱帯魚のようだった。ひっつめ髪から零れるおくれ毛の緩やかなカール、真っ白なブラウスの袖口から覗く細い手首、深みのあるブラウンの革ベルトが上品な腕時計、淡い色のスカートのプリーツが波打つ影模様。どこを切り取っても隙のないその風貌は、艶やかな鰭で水を撫でるそれを連想させるのだ。“教師”という職はまさに彼女にうってつけで、教壇という場は、さながら彼女に与えられた舞台だった。きっと彼女のような類の人間は、最初から“教師”になることを宿命づけられていたのだと、当時の俺は信じて疑わなかった。今思えば十代半ばの青年が抱える些末な劣等感に過ぎないのだが、そのときの俺は、あまりに完成された(ように見える)その姿に、なんだか自分の生き様を否定されているような気がしてならなかった。
高校二年生のときの俺といったら、何か自分が他とは違う特別な存在のように思えてならない一方で、“特別”になるべく何をすべきなのか、何をしたいのかも皆目見当がつかず、実に宙ぶらりんな状態で時を持て余していた。有体な言い方をすれば、「モラトリアム」というやつだったのだと思う。とにもかくにも、世間に馴染まない“非凡さ”を誇らしくも恭しくも感じていた俺にとって、担任の教師という存在は、大人たちの中でも一際上手に息をしているように見えてならなかった。
「今日から〇年〇組を担当します。〇〇〇〇と言います。よろしく」
鈴の鳴るような透き通った声で彼女がそう自己紹介すると、教室の中にぴりりとした心地よい緊張が走った。後ろの方で女子たちが「やった」「当たりだ」と小さな歓声を上げる。硬い椅子の背もたれに体を預けて、彼女の後ろにある黒板に書かれた文字を眺めた。やや右上がりで、線の細い、きれいな字だった。“神経質そうな字だ”と思った。
しかしそんな第一印象とは裏腹に、実際のところ何ヶ月か時を経てみても、このとき感じた“神経質さ”みたいなものに触れることは全くと言っていいほどなかった。それどころか、あまりに人生のお手本のような振る舞いをするものだから、冒頭述べた通り、宙ぶらりんな自分を否定されているような気がして、彼女とは一定の距離を置くようになった。逃げるようにして行き着いた先は、正面玄関を入って右側、事務室のすぐ脇に置かれた古びた水槽の前だった。片腕の長さくらいある立派な水槽の中には、老いた金魚が一匹。誰が持ち込んだのか定かではないが、数年前にある生徒が夏祭りの金魚掬いで捕ったうちの一匹だそうだ。誰かが大事に世話をしているのだろう。水槽はいつも隅々まで手入れされていた。鱗は所々剥がれ、鰭も端切れ布のようにぼろぼろだったが、力強く水をかくその姿に魅入られ、気づけば小一時間を水槽の前で過ごしていることも多々あった。
六月下旬、雨上がりの湿った土の匂いが夏の始まりを予感させる翌る日のことだった。慌ただしく移動教室に向かう友人たちに背を向け、気がつけばいつものように水槽の前に立っていた。薄暗く、湿った空気を纏った廊下で、ポンプが吐いた空気が水面で爆ぜる音だけが妙に近くに聞こえる。水を掻いて揺らぐ薄黄色の鰭の艶を求めて、水草の隙間に至るまで目を凝らしたり、側面から水槽を覗いて隅々を探してみたが、そこにいたのは見知らぬ銀色の小さな魚だった。小さな鰭で忙しなく水を掻くその姿は、水というものを初めて知ったのではないかと思うくらいに不器用で、無様だった。小さなそいつが鰭をばたつかせる様子を眺めていると、不意に、視界一面に“ぬっ”と何かが現れた。突然姿を現したそれに驚きつつも焦点を合わせていくと、水槽の向こう側から、見覚えのある顔がこちらを覗いていた。水のゆらめきに合わせて、輪郭が僅かに波打ち表情をかき消していく。
「魚、好きなの?」
いつもここにいるよね。と、鈴の鳴るような声でその人は言った。誰もいない廊下一帯に、ぴりりとした緊張感が走る。そこにいたのは、担任の教師だった。
「知っとったと?俺が授業ばサボってここにおるこつ」
「事務員さんの間で有名だよ。背の高い子がよく金魚の水槽を覗いてるって」
そう言って彼女は事務室の方を指差した。人差し指の爪が、薄暗い廊下の僅かな光を吸い取って、月のように滑らかに光る。
聞くところによると、図体のでかい生徒が小一時間水槽の前に入り浸っていると、事務員の間で噂されていたという。自分の風貌が人より幾分が目立つ方であることをすっかり失念していた。預かり知らぬところで意図せぬ噂が立っていることが急に気恥ずかしくなり、動揺を隠すように頭の後ろを掻いた。再び水槽に目を向ける。小指の先くらいの小さな銀色の鱗が、水槽の脇に取り付けられた小型のライトの光を反射していくつもの小さな鏡のように鋭く光っていた。金魚はどうしたのかと聞くと、先週ついに生き絶えてしまったらしい。
「こん新入りは、なんちゅう名前と?」
“こんこん”と、人差し指の第二関節で水槽を叩く。
「見たことない魚たい」
「そう?千歳くんもよく知ってると思うけど」
“グッピー”
「ペットショップとかで見るでしょう?」
「“グッピー”ちゅうたら、もっとこう、色が綺麗で……」
「ああ、それはね、グッピーの稚魚には色がないの」
“へえ、そんな魚もいるのか”と関心していると、続け様に「大人になると色づくなんて、人間みたいね」と彼女は言った。性善説の立場をとるなら、まっさらな子どもが成長につれて汚れや穢れを背負っていくことを“色づく”と言えなくもないが、彼女の言う“色づき”は、それとはどこか違うもののように思えた。てっきり授業をサボっていることを咎められるのかと思ったが、彼女はそれっきり何も言わず、しばらく水槽の中の銀色の魚を眺めたのち、職員室に向かって歩いていった。湿った木の床を、パンプスのヒールが打ち鳴らす音に耳を傾ける。トンネルのように真っ直ぐと続く廊下の暗がりに、華奢な背中が吸い込まれていくのを見送った。六月下旬、雨上がりの湿った土の匂いが夏の始まりを予感させる翌る日のことだった。
*****
夏休み開始の一週間前。
珍しく朝早くに目覚め、部活の朝練にでも行こうかと勢いのままに家を出た。その日はその年一番の猛暑日で、数分後には来た道を引き返したい衝動に駆られたが、折角部活に行く準備までしたのだからと、重たい足を引き摺るように歩みを進めた。じりじりと肌を焼き付ける陽の光と、アスファルトから立ち上る熱気との間の板挟み状態は、人間からまともな思考回路を奪うには十分過ぎた。学校の正門との距離が縮まるにつれて、ここ最近頭を悩ませるようになったある“考え”が頭の中を埋め尽くしていく。このまま朝練に出て、退屈な授業をやり過ごして、放課後またコートに戻って、そんなことの繰り返しで一体何になるのか。これはまともな“大人”になるための通過儀礼でしかないのではないか。当時の俺は、自分の中の“非凡さ”を信じて疑わず、その“非凡さ”からくる意志に従って、授業や部活、学校行事といった学生たらしめる行為を「通過儀礼」と称してえらく拒んだ。そして、石造りの正門が目に入るや否や、そんな拒絶心に従うかのように、半ば反射的に道を直角に曲がった。そのまま高校の最寄り駅に向かってずんずんと大股で歩みを進める。向かう先は定まっていなかった。とにかく数秒でも早く、数メートルでも遠く、あの箱庭から離れたところに行きたかった。
行き先も考えず電車に飛び乗り辿り着いた先は、名前も知らない海辺の田舎町だった。木造の住宅がまばらに建ち並ぶだけの、蝉の声が虚しく響く、過疎化の進んだ人気のない町。手入れのされていない植木の生い茂る細い道を進み、住宅地へ入って行ったが、真夏だというのに妙に寒々しさを感じる街の様相に追いやられるようにして、気がつけば町外れの海岸沿いの道に出ていた。
がらがらとシャッターを開ける音に顔を上げると、売店の店主らしき年配の男が開店の準備をしていた。まだ九時にもなっていないというのに、どうやらこの男の気が向いたときが開店時間になるらしい。店先の看板に書かれた営業時間の上には、雑にビニールテープで二重線が貼られていた。男と目があったような気がしたので軽く会釈をしたが、町民でない人間(それもかなり目立つ風貌の大男)がふらふらと出歩く姿を怪しんだのか、彼は訝しげな表情で俺を一瞥すると、いそいそと店の中に入っていってしまった。
沿岸の道の脇には小高い堤防があり、それを超えるとすぐそこに海が広がっていた。堤防と並走するように、車一台が通れるほどの一本道が視界の遥か先まで伸びており、その行く末を目で捉えることはできなかった。ふと、この道はどこまで続いているのかという考えが過り、興味の赴くままに歩き出す。しかし、どれだけ歩けども目の前に広がる景色は変わらず、同じ場所を何度もループしているような気さえしてきた。ついに十数分ほど歩いたところで根を上げ、くるりと踵を返した。来た道をとぼとぼと引き返していると、堤防の上へ昇る階段が目に入る。一休みしようと階段を上がり、コンクリートに荷物を下ろして、海に背を向ける形で腰掛けた。耳の後ろでさざめく波の音が近づいたり遠のいたりするのに合わせて、自然と体が前後に揺れた。潮の香りを孕んだ風が背後からふわりと体を包み、海に引き摺り込まれそうな感覚に陥る。波音が、潮風が、この堤防を超えたらすぐそこに海が広がっているという事実を一層濃く色づかせ、まるで世界の端っこに追いやられたような気分にさせた。
しばらくの間そうしてそこで潮風を浴びていると、不意にどこからか、何かがガラスを打ちつける硬質な音が聞こえた。音のした方に目をやると、見覚えのあるシルエットがこちらに向かってくるではないか。何度もあの忌まわしい箱庭で見た、よく知っている顔。けれどもその様子は、普段と随分と違って見えた。
第二ボタンまで開いたワイシャツの襟口から覗く胸元で、汗ばんだ肌が眩く照っている。肘のあたりまで雑に捲られた袖口から、日焼けしていない白い肌がすらりと伸び、そこにいつもの革ベルトの腕時計の姿はない。肩に食い込んだ鞄の取っ手がシャツに幾重もの皺を作り、中身の重さを容易に想像できたが、彼女の足取りはそれを感じさせなかった。こつんこつんと、硬いヒールの踵でアスファルトを叩く音が、普段より幾分か軽やかに聞こえ、まるでステップを踏んでいるかのようだった。体の揺れに合わせて、左手に持ったラムネの瓶の中でビー玉がガラスの壁を叩く音が耳に心地良い。水色のスカートの裾が、右へ、左へ、襞を寄せ、波の往来を思わせた。“上機嫌なんだな”というのが見てとれた。そして、彼女の気持ちの昂りに呼応するかのように、言いようのない高揚感に胸を支配されていく自分がいた。一言で言えば、“魅入られていた”のかもしれない。波のさざめきも、海鳥の鳴く声も、先ほどよりずっと遠くから聞こえる。
「先生、先生じゃなかと?」
こちらに気づいていなかったのか、声をかけると、ぴくりと肩を揺らして顔を上げたのち、驚いた様子で「千歳くん?」と名前を呼ばれた。その名を口にする一瞬、僅かに表情が曇ったのを見逃さなかった。どうやら彼女の世界にとって俺は招かれざる客人だったらしい。
「やっぱり、先生やった。こんなとこで、何ばしよっとですか?」
そう尋ねたものの、薄々答えには勘付いていた。日頃学校で見るのと同じオフィスカジュアルな装い、右肩にかけられた鞄からは、教科書や参考書の背表紙が見え隠れしている。少なくとも彼女は自分の仕事場へ出勤しようとしていたのだ。しかしこの人は今、学校の最寄り駅からうんと離れた田舎町の海岸沿いを歩いている。時刻は授業開始時間をとうに過ぎていた。“自分の推測が正しければ、もしかしたら……”という予感めいたものが喉の奥の方で蠢いて騒がしい。彼女は俺の問いに対して「千歳くんこそ」と同じ質問を反芻したのち、「また授業をサボって……」と言いかけて口をつぐんだ。予感が確信に変わる。“この人にも仕事を抜け出したくなることがあるのか”と、言い様のない高揚感が全身を包んだ。「そう言う先生もサボりではないか」と追い打ちをかける。自然と体が揺れ、足元がそわそわと落ち着かなかった。問いに対して彼女が少し考える素振りを見せたのち、「今日のことはお互い他言無用にしましょう」と言ったとき、俺はどうしてか“嬉しかった”。自分と正反対のところにいるようなこの人に、自分の内面の柔らかくひりひりした部分と同じ面影を見たような気がしてならなかった。そしてそれがどうしようもなく“嬉しかった”のだ。
最後の一言で手打ちになったと思ったのか、再び歩き出そうとする彼女を制した。この先を歩いて行っても何もないことを告げると、「それなら仕方ない。戻りましょう」と、あっさりと踵を返すものだから、慌ててラケットケースを背負い後を追った。
見知らぬ田舎町の無人駅。駅の構内はどんよりと薄暗く、あの水槽のある事務室前の廊下を思わせた。海鳥の鳴く声が外壁を通してくぐもって聞こえ、土づくりの床を擦る足跡が駅舎内を反響し、箱の中に閉じ込められているような気にさせる。
先を行く彼女は、しばらく辺りを見渡したのち、待合スペースの片隅に置かれた三脚のベンチのうちのひとつに腰掛けた。少し間を置いて、ラケットケースを地べたに下ろし、その隣に腰掛ける。彼女は何やら鞄の中をごそごそと漁り、おもむろにクリアファイルを取り出すと、それを団扇代わりにして仰いだ。クリアファイルの扇から送られる微風がワイシャツの襟元を震わせ、首筋を伝う汗の粒が、鎖骨の突起を乗り越えて胸元に吸い込まれてゆく。ワイシャツの内側から覗く“それ”の縁に施された繊細な刺繍模様に、思わす息を飲んだ。俺の視線の不自然さに気付いたのか、彼女はファイルを動かす手を止め、僅かに首を傾げる。気取られてしまったかという懸念も束の間、目の前にファイルが差し出された。どうやら、俺がこいつを羨ましげに眺めていたと思ったらしい。そういうことならばこちらにとっても都合が良いと、差し出されたそれをありがたく受け取る。ファイルを手放した彼女は、今度は文庫本を団扇代わりにして仰ぎはじめた。コバルトブルーが眩い表紙絵、聞いたことのないタイトルだが、作者の名前には見覚えがあった。
構内の壁一面には、“交通安全”や“痴漢注意”を呼びかけるポスターやチラシが、隙間も見当たらないほどびっしりと貼られていた。新しいものも数枚はあるものの、どれも随分と古びて色褪せている。古びているのはポスターだけではない。埃の積もったコンクリートの壁面、ペンキの剥げた窓枠、踏み固められた土作りの床。セピア調の色合いの駅舎の中で、彼女の纏う水色のスカートだけが、このちっぽけな世界の色彩を全て詰め込んでいると思わせるくらい鮮やかに映った。
「先生は、なしてあんなところば歩いていたと?学校は大丈夫とね?」
実のところ、俺はこのとき少々浮き足立っていた。わかりきった質問を投げかけると、返ってきたのは意外な反応だった。
「その、“先生”っていうの、今日はやめて欲しいんだけど」
予想もしていなかった返答に呆気に取られていると、慌てた様子でこう付け加えられた。
「違うの。今日は教師であることを忘れたくって。学校を休んだのも、仕事がしんどくなっちゃったからなの。だからね、今日は“先生”やめたいなって」
自分は人より幾許か察しの良い方であると思う。彼女の発した言葉に対してそれ以上余計なことを聞かず、そして彼女がこれ以上自身を守るための言葉を並べるより早く、黙って頷き、了解の意を伝えることができたのも、自身の察しの良さが功を成したのだと思う。しかし「先生」でないとすると、彼女のことを何と呼ぶべきか、という問題が生じる。頭の中で、苗字や名前に“さん”をつけて呼ぶ様子を想像してみたが、何だか妙なむず痒さを感じてしまうのだ。何と呼べば良いかと尋ねると、彼女は少し考える素振りを見せたのち、驚くべき名を口にした。
「みゆき」
それはあまりにも身近で、聞き慣れた名前だった。俺には五つ離れた妹がいた。名を、“ミユキ”という。
担任の教師なら、家族構成くらい知っていても不思議ではない。彼女が敢えてその名前を選択したのではないかと勘繰って、一瞬だけ息を呑み、四肢が強張る。普通でない沈黙を感じ取ったのか、彼女訝しげにこちらを覗いて首を傾げた。どうやら本当に偶然だったらしい。渋々自分に“ミユキ”という名の妹がいることを打ち明けると、「それじゃあ別の名前にしよう」と、文庫本で風を仰ぐ手を止めて考え込む素振りを見せた。ウンウンと唸らながら苦悩する彼女の手の中で、ブルーの表紙が眩いそれが目に留まる。指の隙間から覗く作者の名前を見て、彼女が「みゆき」という名前を選択した理由がわかった。
「みゆきさん」
口に出すと、妙な感覚に包まれた。妹の名であるはずなのに、特別な女性の名前を呼んでいるような気分。幾度となく口にした馴染みのある名であるにもかかわらず、それでいてどこか他所行きで、格好つけたような、そわそわと落ち着かない。相反するふたつが共存し、その境目がひとりでにざわめき立っているようで、どうにもくすぐったいのだ。
「みゆきさんは、なして教師ばなろうと思ったと?」
そう尋ねたのは、“みゆき”という別の名を得た今であれば、教壇の上で話すような模範的な解答ではない、ありのままを話してくれるかもしれないと期待したからだ。
彼女は最初、「高校時代、友人に勉強を教えていて、教え方が上手いと言われたから……」と月並みな理由を並べ立て、すぐさまそれを打ち消すように「嘘、嘘」と訂正した。
「大した理由なんてないの。本当はね、大学のとき全然就活が上手くいかなくって、一応教員免許は持ってたから、一か八かで受けてみたら受かっちゃって……って感じ」
“みゆき”を通して紡がれた言葉は、口に出したそばから消えていくように軽やかだった。今思えば、高潔で、無垢で、自分と正反対なところにいる(と思っていた)彼女に、自身と重なる部分を見出して、子ども染みた安堵を得たかっただけなのだと思う。気付けば、「なあんだ、安心したばい」と口に出していて、自分の頰がだらしなく緩むのを止めることができなかった。
しばらくして、彼女は何かを思い出したように軽く手を叩くと、「耳が痛い話かもしれないけれど」と前置きし、進路希望調査の紙が未提出である旨を告げた。クラスで提出していないのは俺一人だけだという。高二の五月に配られて以来、顔を突き合わせるたびにせっつかれたが、何かと言い訳をつけて交わすうちに、とうとう夏を迎えてしまった。
「今日は‘’先生‘’やなくて‘’みゆきさん‘’やけん、出す必要なかとね」
揚げ足取りに近い理由を述べると、どうやら彼女も本気で提出を促したかったわけではないようで、「千歳くんは、将来“悪い男”になりそうだなあ」という冗談めかした返事と共に、この話題は終わった。
次の電車が来るまでの間も、浮ついた感覚はおさまらなかった。心臓がぷかぷかと水面に浮くような妙な気分だ。車輪が鉄のレールを打ち鳴らす音がすぐそこまで迫ってきていたが、もうしばらくこの浮遊感を手放したくなくて、俺は彼女に先に帰るよう促した。彼女は少し首を傾げたのち、「そう」とだけ言って背を向けた。発車を知らせる汽笛の音に、慌ててICカードを取り出そうと鞄を漁る彼女に、どういうわけか、薄暗い水槽の中で銀色の鰭をばたつかせるあの小さな魚を重ねていた。改札の向こう側に吸い込まれていく後ろ姿が、まるで蜃気楼のように揺らめいて、霞んでゆく。このまま彼女を見失ったら二度度会えなくなってしまうのではないかと、そんな気さえした。
静まり返った駅の構内は、どこか空気が冷たく、それでいてじっとりと体にまとわりつく大気が、夏であることを忘れさせまいとしている。蝉の鳴き声がくぐもって聞こえ、まるでここだけが外の世界から切り離されてしまったかのようだった。どれくらいの間その場に留まっていただろうか。そろそろ帰路につこうと腰を上げたとき、制服のポケットからぽとりと何かが床に落ちた。くしゃくしゃになった紙切れだった。拾い上げて広げてみると、そこには「進路希望調査」の文字。今年の春に配られて以来、先ほども然り、顔を合わせるたびに提出するようせっつかれていた。適当な大学の名前でも書いておけば良いというのに、自分の中の何かがそうすることを嫌うのだ。けれども、どういうわけかこのときは今ならそれをしても良いという気になった。構内を見渡すと、自治会のお知らせの掲示の下に数十センチ四方の小さな机とアンケート用紙らしきものがあった。備え付けの鉛筆を手に取り、勢いのままに筆を走らせる。先の丸くなった鉛筆の芯は、時折藁半紙の繊維に引っかかりながらも力強く文字を綴った。書き上がったそれを目の前に掲げてまじまじと眺めているうちに、次第に向こう側にある壁一面に貼られたポスターやチラシにピントが合ってゆく。手の中にあるA5用紙は背景のそれらと妙なくらい違和感なく馴染んでいるような気がした。近くのポスターから一つ画鋲を拝借し、他の掲示物の上から藁半紙を貼り付けると、壁に背を向けて振り返ることなく改札を潜った。視界の隅で、彼女が起き忘れたラムネの空き瓶がベンチの座面に光模様を作り、水面のように揺らめいていた。
****
その一件依頼、どういうわけか授業や部活をサボることはなくなった。教師たちからは何か心変わりするきっかけでもあったのかと度々尋ねられたが、理由は自分でもよくわからなかった。ただ、教室に行き着くまでを阻んでいた壁のようなものが無くなったような気がしたのは確かだった。
彼女との関係は、あの一件を経ても何ら変わらなかった。必要最低限の事務的な会話や、浅い身の上話をすることはあったが、あの日のような彼女の真髄に触れる言葉を得ることはなかった。
いや、一度だけ、わずかに彼女の剥き出しの内面に触れた(あるいはそのような気になった)出来事がある。
三月、卒業式の日だった。式を終え、教室で別れを惜しむ友人たちと談笑していると、ふと、あの金魚のことが頭をよぎった。亡骸を手にしたのは誰だったのか、墓は作られたのか、気になりつつも聞かずじまいだったことがそれなりにあった。事務室に足を運び、残業中の職員を一人つかまえて尋ねると、どうやら職員の中の誰かが中庭に墓を作ったらしいということがわかった。本当に気まぐれだった。卒業する前にあいつの墓前で手を合わせるくらいはしていこうと、足早に中庭に向かった。
校舎と校舎の間、小高い丘が一つと、ベンチ一脚、花の植えられたプランターがいくつか。三方を壁に囲まれたそこには、冬の残り香と春の気配が融和していた。“ぴゅう”と吹き込んだ風が、どこかでさらった桜の花弁を枯れた芝の上に置き去っていく。中庭の片隅、土を盛っただけの丘の上に、それはあった。“キョンちゃんの墓”と油性マジックで書かれた木片が、無造作に土の上に転がっていた。周囲には土が掘り返された跡と、スチール製のクッキー缶が顔を出していた。“キョンちゃん”というのは、おそらく金魚の名だろう。職員の間であいつがそう呼ばれていたことを、ここで初めて知った。土の色を吸ってくすんだ木片の傍で、静かに息を潜める鈍色の四角いそれに視線を落とす。缶の蓋に書かれた「10年後の◯年◯組へ」の文字から察するに、何年か前の卒業生が埋めたタイムカプセルだろう。周囲の土には、何者かによって掘り返された跡があった。いったい誰が。目を凝らすと、掘り起こされて柔らかくなった土に四本指の小さな足跡。木片を元の位置に埋め直そうと身を屈めると、すぐ近くの植木の中から「にゃあ」と鳴く声が聞こえた。中庭に、いっそう冷たい風が“ぴゅう”と吹き込む。風の行先を目で追うように視線を滑らせると、渡り廊下の窓越しにその人の横顔を捉えた。「先生」と、半ば無意識に近い形でその名称を口にしていた。「わたし?」と言うように目を見開くその仕草が、何だか小動物のようでいじらしい。手招きしてこちらに呼び寄せると、彼女は室内履きのサンダルのままこちらに向かってきた。
枯れた芝を踏むサンダルから覗く爪先は、自分のローファーのそれよりずっと小さくて華奢だった。薄桃色のスカートが風を掬っては捨てる滑らかな動きから、目を離すことができない。“中庭を歩く”ただそれだけの動作のはずなのに、周囲の植物が、塵や花弁が、大気が、彼女のために道を開けているように見えた。あの日、海辺の田舎町で彼女の姿を見つけたときとよく似ている。彼女との距離が縮まる間、居心地の悪い妙な沈黙が流れた。ずいぶんと長い間そうしていたように感じたが、実際のところは数秒程度だろう。沈黙を破ったのは、毛むくじゃらのそいつだった。芝を踏む乾いた音に驚いたそいつは、植木の影から飛び出すと、あっという間に姿を消した。
「ごめん、猫がいるって知らなくって」
「良かばい。あいつはこの辺の花壇さ荒らして、悪さばっかりしちゅう。お灸ば据えてやらにゃいけん。それに、見せたかったのは猫じゃなか」
足元のスチール缶を指差す。彼女の視線が、指先の軌道を追って地面のそれに注がれる。
「タイムカプセル?」
「そんようやなあ。あーあ、派手に掘り返して……」
俺の言葉を最後まで聞かずして、驚くべきことに彼女はスカートが汚れるのも気に留めず、その場にしゃがんで土に手を伸ばした。白く骨張った指先が土を掻き、先端でつるりと光る薄桃の爪が泥に塗れてくすんでいく。地べたについたスカートの裾が枯れた芝を絡め取っていることにすら、気づいていないようだった。懸命で、周囲を気遣う暇もないその様子に、忙しなく水を掻く銀色の小さな魚を重ねる。土をかき集めようと伸ばされたもう片方の手を、腕ごと掴んで制すと、驚いた様子で「何をするのか」と問われた。何と言って彼女を留めたのか、今となっては思い出せない。ただ、彼女は俺の言葉に何度か頷くと、憑き物が落ちたかのように「そうかもしれない」とだけ口にした。そのときだった。伏せた瞼の隙間から覗く視線の中に、わずかな“ざらつき”を感じ取ったのだ。
「あんまり遅くまで残らないようにね」
そう言って背を向け、丘を下って校舎に戻っていく彼女の背中を見送った。乾いた中庭を、薄桃のスカートが鰭のように優美に風を撫でていた。
*****
五年後の夏、大学四年になった俺は、就職活動に難航していた。周囲の友人たちが続々と就職先を決めていく中、一つも内定を貰えていないのは、ついに自分一人になっていた。それなりに面接に挑んだりもしたが、食い扶持さえ何とかなれば何をしたって良い、どこで働いたって構わないという、根底にある無気力さを、大人たちは見抜いていたのだと思う。耳障りの良いそれらしい言葉を並べ立てて作り上げた志望動機を、薄い外装を剥がすように脇に追いやって、剥き出しの自分と向き合わされるたびに、五年前の夏に進路調査の紙に画鋲を突き刺したときの感触を思い出した。そういえば、あの紙は今もあの駅舎の壁にあるのだろうか?ふと、そんな疑問が頭をよぎり、翌日には面接をキャンセルして例の町までの切符を買い、電車に飛び乗っていた。
乗り換えのために一度母校の最寄駅で降り、ホームを歩いていると、売店のショーケースの中に置かれた懐かしいフォルムのそれが目に留まった。ラムネだ。そういえば、あの海辺で出会ったとき、彼女はラムネの空き瓶を手にしていた。これも何かの巡り合わせだろうと、瓶を手に取り会計を済ませると、ちょうど向かいのホームに到着した電車に小走りで乗り込んだ。
五年ぶりに訪れたその場所は、長年思い出の中で息をしていた光景よりもずっと廃れて、ちっぽけで、粗末だった。背丈は当時とそれほど変わらないというのに、駅の天井は記憶の中のそれよりもずっと低く感じたし、埃にまみれた壁は所々ひびが入ってみすぼらしかった。駅舎を見て少々落胆したのは、年月の経過による劣化のせいだけでは説明のつかないものだった。俺は心のどこかでここを神聖な場所か何かだと思っていたのかもしれない。あたりを見回すと、五年前と同じ場所に木製の机とアンケート用紙の束を見つけた。そのすぐ真上、重なった無数のポスターの一番上に、それはあった。
“2年◯組 ◯◯番 千歳千里”
“第一志望校:◯◯大学”
鉛筆の芯が藁半紙を抉った跡を指でなぞると、ざらりとした感触とともに砂とも埃とも見分けのつかない何かが指先にまとわりついた。五年前と同じ位置に据え置かれたベンチに腰掛け、背もたれに体を預けて天井を仰ぎ見る。壁の上の方に据え置かれた小窓から差し込む陽の光の中で、埃や塵が星屑に似た瞬きを纏って踊っていた。土づくりの床を踏むじゃりじゃりとした不快な感覚が、靴底から伝わり踵の骨を震わせる。一枚板の背もたれに肘をかけると、“ぎい”と、木と鉄の支柱が擦れて軋む耳障りな音がした。深く息を吸い込む。黴臭く湿っぽい空気が喉を通る感触だけは、どこか懐かしく、不快ではなかった。左手の中で汗をかくラムネの瓶をベンチの座面に置くと、ビー玉がガラスの壁を叩く音が駅舎内の湿った空気を鋭く切り裂いた。しばらくの間、そうして小窓から差し込む光の中を泳ぐ埃の粒を目で追ううちに、駅舎の外で鳴く蝉の声に聴覚のピントが合っていく。次の電車が来るまでの間、過去の自分をなぞるように堤防沿いの道を歩くのも悪くないかもしれない。立ち上がり、スラックスについた汚れを掌で叩くと、外に向かって大股で歩き出す。出入口の敷居を跨いだところで、背後から鉄の塊を叩く音がした。“ごおん”と、あたり一体に鳴り響くその音は、駅舎から体を押し出すようにびりびりと肌の細胞を震わせた。見上げると、頭上で時計の針が七時を示していた。駅名の書かれた看板の上だけ少し建物の背が高く、そのてっぺんに古びた時計があった。町の中で一番高い建物であるこの駅は、時計塔の役割も果たしているようである。錆びついた針が数える一秒は、普段より心なしかせっかちに時を刻んでいるように聞こえた。
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