東京という街は、そこだけ時間の流れが速くなってしまった様なところだと聞いたことがある。東京の時計の秒針はぐるぐると滑る様に滑らかに回転するだけで、カチコチと独特のリズムを刻まない、そんな気がするのだ、と。
閉まるドアを背にホームに降り立つと「東京」と書かれた看板が私を異国の地に到着した様な気持ちにさせた。改札を出ると、そこは「東京」だった。
圧倒的な存在感を放つ高層ビルに息を飲むのと同時に、その下をうごめく人間の波に何とも言い様の無い絶望感を覚える。彼等は波が成す形に身を委ねているだけで、果たしてそこに意志というものが働いているのだろうかと考えたら、あれだけ想い焦がれていた地に訪れたというのに、いざその中に飛び込むことを躊躇している自分がいた。
一歩、波の中に足を踏み入れる私の胸中は期待と言うよりは不安の方が勝っていた。それでも一歩、また一歩と波に飲まれていくうちに、私の腕時計の秒針は時を刻むことをやめた。
かつかつ、とハイヒールがアスファルトの地面を叩く音の間隔が徐々に短くなってゆく。だが一方で、後ろに続くキャリーバックのキャスターがごろごろと転がる音はいつまで経っても一定で、それはまるで故郷に対する私の思い入れの様にずるずると執拗についてまわる。ごろごろ、と変わることのないその音を打ち消そうと、かつかつ、とヒールが鳴らす音は急かされる様に間隔を短くしてゆき、それでも鳴り止まないキャスターの音に、私の歩みは更なる速度を求めた。
その攻防戦に終止符を打ったのは、一本の電話だった。コートのポケットの中で震える携帯電話を手に取り、ディスプレイに映し出された「千歳千里」という四文字に思わず自分の目を疑ったのは、それが、番号を交換したものの今までに一度だって電話が掛かってきたことのない者の名前で、そしてこの先も彼の名前で液晶が光ることなど有り得ないと思っていたからである。
「もしもし」
雑踏にかき消されないように少し大きな声を出す。「元気でやってるか?」という言葉が返って来るまでに数秒の沈黙があり、慣れない手つきで壊れ物を扱うかの様に携帯電話を握る彼の姿を想像して、少しだけ笑えた。
「元気でって、まだ着いたばかりなんだけど」
「ああ、そうやったね」と言いながら照れ臭そうに頭の後ろを掻く彼の姿も、ありありと想像出来た。それだけではない。くしゃくしゃの黒髪が風に揺れるのも、長い手足がふらふらと動くのも、大きめの上着の襟首から覗く首筋が美しい程に真っ直ぐなのも、彼の全てを鮮明に思い浮かべることが出来る。否、それは思い浮かべると言うよりは脳裏に焼き付いてしまったと言った方が良いかもしれない。
「東京、やったか」
「うん」
「寂しくなか?」
その問いに私は頷かなかった。頷いてなるものか、と思った。それは故郷に対する私の思い入れというものの大部分を占めているのがまさしく彼で、だからこそ私の中の彼の記憶いつまでも色褪せないのであり、その問いに頷いてしまったら、私は、まだ始まってすらいないこの東京という街での生活に何の希望も見出だせなくなる様な気がしたからである。早く、電話と共にこの想いも断ち切ってしまおう。早く早く、と歩く速度を更に早めようとハイヒールで地面を“かつん”と鳴らしたその時、私は鉄下駄の音を聞いた。
「東京かあ」と、受話器の向こうで今一度同じ言葉を繰り返す彼は、私が知る限りではいつも鉄下駄を履いていた筈である。長身の彼が持つ携帯電話が二メートル近く下方にあるそれの音を感受出来るとは思えなかったが、ずっしりと重みを持った外見とは裏腹に、からんころんという心地好いその音は、確かに私の耳に届いていた。
からん、ころん
それは時計の秒針が打ち鳴らすリズムに酷く似ていた。
「……」
「どぎゃんしたと?」
「…何でもない」
からん、ころん
忘れかけていた何かを取り戻す様に、私のハイヒールも都心とは不釣り合いなゆったりとしたそのリズムに合わせて、徐々に、徐々に速度を落とし、反対方向からやってくる人と何度か肩がぶつかっても、後ろを歩く人から「早くしろ」と不服の声を漏らされても、それは続けられた。
ゆっくり、ゆっくりで良いのだ。小石が爪先に当たって転がるのを地面から感じ取る。縮こまっていた手足がするすると伸びやかに広がるのと同時に、そびえ立つ高層ビルの天辺が幾分か近くなった様な気して、開けた視界はここが都心であることを忘れさせた。揺れる身体は先程までは気付かなかった細やかな風を受け入れる。
彼の鉄下駄の音と私のハイヒールの音がぴったりと重なったその時だった。
「千歳?」
「なんね」
「ありがとう」
携帯電話を閉じてコートのポケットにしまい込んだ後も、からんころんという音が鳴り止むことはなかった。そして、私の腕時計の秒針は、再び時を刻み始める。
100404
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