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蠍の心臓

  • echo0607
  • 2 日前
  • 読了時間: 22分

何者でもない何かになりたい。


そんな矛盾した思いを常に抱えていた二十歳のことだった。


茹だるような暑さに立っていることすら嫌になる夏のある夜、二週間ぶりに自宅のアパートに帰ると、電気が止められていた。

錆びついた階段を昇った二階の一室、玄関の鍵はいつも開けっぱなしだった。六畳一間のボロアパートには、布団と大学のテキストと冷蔵庫くらいしか置いておらず、盗まれて困るような物もない。外出先で鍵を無くしてしまうことを繰り返すうちに、鍵をかけること自体を放棄した。

玄関のドアを開けると、湿気を孕んだ空気がむわっと肌を包み込んだ。暗がりの中、壁に手を這わせて手探りで照明のスイッチを入れたが、室内は外と同じ暗闇に包まれたままだった。またかと思い、ドア裏のポストを探ると、電気代の滞納を知らせるハガキを見つけた。二、三ヶ月前にATMでお金を下ろしたとき、口座の残高が雀の涙程度しか残っていなかったことを思い出す。昨日手渡しされた日雇いバイトの給料がちょうど手元にある。先ほど立ち寄ったばかりの近場のコンビニに振り込みに行こうとサンダルに足をかけたところで、途端に面倒になり、「明日でいいか」と少々投げやりな気にすらなって、外に出るのをやめた。何より、手に持ったコンビニ袋の中の缶ビールがぬるくなってしまうのが嫌だった。

ささくれだった畳を横断して、ベランダに繋がる窓を開けた。窓から流れ込む外気が、室内に立ち込めた空気の重たさを一掃していく。窓の縁に腰掛け、ベランダに足を投げ出した。畳の上に置いたコンビニ袋を手繰り寄せ、中からビールを取り出すと、タブに手をかけて力を入れる。炭酸の弾ける音と共に白い泡が吹き出し、アルミ缶をつたううちに液体となったそれは、ベランダのコンクリート床に丸い染みをいくつも作った。

炭酸の泡がぱちぱちと爆ぜながら咽喉を通過する感覚の心地よさは、かえって暑さに対する拒絶を助長した。この気温と湿度の中で一夜を過ごさなければならないのかと思うと気が滅入り、ポケットからスマートフォンを取り出すと、長い間ほったらかしにしていたメッセージアプリを開いた。一晩泊めてくれそうな相手はいないかと思ってのことだったが、未読メッセージの多さとその内容に更に気が滅入り、ものの数秒でアプリを閉じて画面を伏せた。


“今夜空いてる?”

“久しぶりに会おうよー”

“寂しい”

“私って千歳の何?”


全て違う相手からのメッセージ。そしてそのどれもが、自分に対して何らかの行動ないしは態度を期待するものだった。自分の行いがあまり褒められた物ではないことは重々承知しているが、そのときの俺は、”友達”とか“恋人”とか、特定の相手との関係性に名前をつけて、それに見合った役割を担うことに、どうしようもない抵抗があった。


“何者でもない何かになりたい。”


馬鹿げた願望。それが自身の社会性と倫理観の欠如を顕著にしていることもまた理解していたが、それでも自分がこの先働くようになって、職名や役職といった新たな呪縛を背負うことを想像すると、未来に何の希望も見出せないような気がしてならなかった。そしてそんな漠然とした悲壮感は、生活を益々堕落させていった。


ベランダの手摺の向こう側には、満点の星空が広がっていた。星座にはあまり詳しくないが、南の低空に見える赤く輝く星を”アンタレス”と言い、夏の一等星のうちのひとつであると、どこかで聞いたことがある。手摺の鉄格子の間から見え隠れする一際明るい星が、それだろうか。

数秒かけて大きく息を吸い込む。夏草の青々とした匂いが、虫の音や木立のさざめきを絡め取って体内に入り込み、五感を侵食していく。汗ばんだ肌が外気に触れて湿度を奪われていくのに合わせて、自分の体の輪郭が曖昧になっていくような気がした。四肢や内臓、皮膚の一枚に至るまでが、夏の夜を象徴するこの空間に違和感なく融和していく。時折遠くで聞こえる車のタイヤがアスファルトを踏む音に、たびたび自我を呼び起こされた。


どれくらいの時間そうしていただろうか。不意に左隣の部屋から窓を開ける音がして現実に引き戻された。音のする方に目をやると、部屋同士を隔てる仕切板に拳大の穴が開いていた。プラスチック板が劣化していつの間にかひび割れたのだろう。左隣は確か空室だったはずだ。空き巣でも入ったのかと、恐る恐る穴から隣のベランダを覗く。真っ先に目に入ったのは、生白く細い脚。次に、窓から身を乗り出すようにして整った横顔が出てきた。

若い女だった。といっても、俺より七つ、八つくらいは上だろう。女の爪先が触れたコンクリートの床から、あるはずのない波紋が広がっていくのを見た気がした。”ベランダに降り立つ”ただそれだけの動作なのに、スローモーションの映像を見ているようだ。薄い瞼に透けて見える細い血管の網目が、彼女が生きた人間であることの何よりの証明だった。虹彩の表面に浮かぶ星々の数すら数えられそうなくらい、はっきりと見ることができる。夜風に揺れる髪の軌道を目で追っていると、その奥の瞳と視線が重なった。

ぴくりと肩を振るわせ、怯えた表情でこちらを見ている。無理もない。仕切板の穴から知らない男がこちらを覗いていたら、誰だって同じ反応をする。咄嗟のことに掛ける言葉を見失っていると、彼女の方から声が掛かった。


「もしかして、きみが隣の部屋に住んでるっていう学生さん?」


「あ、ええと、はい……」


想定外の嬉々とした声色に、思わずこちらが狼狽えてしまった。”なんだか距離感の掴みにくい人”それが彼女に対して最初に抱いた印象だった。


「よかった。一週間くらい前にここに越してきたんだけどね、大家さんに、隣に大学生が住んでるけど、あまり家にいないみたいだから、姿を見かけたら声をかけてみてねって言われてたんだけど、もうずっと人のいる気配が全然ないから、中で死んでるんじゃないかって思い始めた頃だったの」


大家とは何度かアパートの近辺で声をかけられて世間話をしたことがあった。面倒見の良い初老の男性で、「大学は楽しいか」とか、「飯はちゃんと食べているか」とか、会うたびにまるで実家の両親のようなことを尋ねられた。


「元気にやってますって伝えといてくれんね」


そう言って二本目の缶に手を伸ばしてタブに手をかけると、「きみも晩酌中?じゃあ、乾杯しよう」という声と共に、仕切板の穴から酎ハイのパッケージが顔を出した。「乾杯」という声と共に、仕切り板を挟んでアルミ缶をぶつける。劣化したプラスチックがばらばらと足元に落ちて穴が数センチ広がった。一週間も家を空けてどこに行っていたのかと聞かれたので、知り合いの家を転々としたり、たびたび遠出をするので自宅を空けることが多いと答えた。ついでに今日帰ってきたら電気が止まっていたと冗談混じりに言ってみると、「うそ!わたし、電気を止められた人って初めて見た」と随分と驚いた様子だった。


「そげん珍獣を見るような目で見んといてほしか」


「ごめん、びっくりしちゃって。あ、そうだ」


そう言うと彼女は立ち上がり、部屋に入っていった。しばらくすると戻ってきて、「電気代の足しにしてよ」という声と共に、仕切板の穴から封筒らしきものが差し出された。中には一万円札が数枚入っていた。


「こんな大金、受け取れんばい」


想定外の代物とその金額に思わず封筒を突き返したが、彼女は「いいの。どうせ泡銭だから、受け取って」と譲らなかった。


「泡銭?」


「身内の遺産なの」


「だったら尚更受け取れんばい」


「こういうお金って、何だかんだ上手に使えないものなのよ」


押し問答の末、彼女は一旦は折れて引き下がったが、翌朝目覚めると皺の寄った昨晩の紙袋が玄関ポストにねじ込まれていた。彼女の部屋のポストに返却しようと試みたが、空室期間中に貼られたガムテープが残ったままであった。長い間放置されて古びたガムテープは、しっかりとポストに封をしていて、爪を立ててみても僅かに紙屑がぽろぽろと落ちるだけで、まるで歯が立たなかった。結局、素直に電気料の足しにするのも気が引け、かと言って他に使い道もなく、困った末その数万円は手をつけられることなく自宅のローテーブルの上に置かれたままとなった。


*****


八月も半ばに差し掛かったある夜のことだった。ベランダで何やら物音がするので、窓を開けて仕切板の隙間から覗いてみると、鉢植えに水をあげている彼女の姿があった。右手にはペットボトルの蓋に穴を開けた簡素なじょうろ、そして左手には吸いかけの煙草が煙を吐いていた。鉢植えの植物はプチトマトだろうか。黄緑のつやつやとした実が四つほど列を成して水を弾いていた。


「家庭菜園でも始めると?」


俺の問いに対して、彼女は「そういうわけじゃないんだけど……」と少し言葉に詰まった。


「人からもらったものだから、粗末にできなくって。でも全然ダメ。環境が変わったせいなのか、ここにきてから一向に実が赤くならないの。あの人は上手く育てていたのに……」


わたし、植物を育てる才能がないのかも。そう言って彼女はじょうろをベランダの隅に放り投げ、窓枠に腰を下ろした。そして右手の煙草を咥えて一吸いしたのち、ゆったりと煙を吐いた。夜闇に溶けていく白煙の軌道を目で追う。


「煙草、吸うんやね。ちょっと意外たい」


「ああ、これ?これはね、」


“夫が遺したものなの”と彼女は言い、煙草の箱を振って見せた。中には三本、煙草が入っていた。

“夫が遺したもの”その言葉は、先日渡された一万円札数枚が入った封筒と即座に結びついた。遺産を残したのは彼女の夫だった人物だろう。そしてかつてトマトを育てていた“あの人”というのも、おそらく同じ人物を指している。返す言葉を見つけられないでいる俺の様子を察してか、彼女は「そんな顔しないでよ」と言って軽く笑った。

三ヶ月前、彼女は夫を交通事故で亡くした。彼女の夫は稼ぎも家柄も良く、父母は既に他界していたため、死後にそれなりの額の遺産が入ったという。しかし、葬儀の喪主や遺産関連の手続きをてきぱきとこなす彼女の姿は、遺産の分前が少なかった親族たちの目にはよく映らなかったようだ。もっとしおらしい態度でいろだとか、本当は夫が死んで嬉しいのではないかとか、ついには彼女が夫を手に掛けたのではないかという噂まで立つようになったという。とうとう耐えきれなくなった彼女は、身の回りの物の一切を捨てて、ほとんど身一つで見ず知らず土地のこのアパートに越してきたそうだ。


「知ってる?人が死んだ後って、結構やることが多いのよ」


夫が死んだことなんて忘れそうになるくらい。そう言って彼女は皮肉っぽく笑った。


その日を境に、彼女とは夜のベランダで共に晩酌を交わしながら話し込むようになった。話す内容のほとんどが「大家さんの孫が夏休み中遊びに来ている」とか「コンビニで売っている期間限定の酎ハイが美味しかった」だとかの世間話か、あるいは自身についての浅い身の上話のどちからだったが、稀に彼女は亡くなった夫の話をすることがあった。顔を見たことすらない男の話だったが、俺は黙って耳を傾けた。そうしたのは、彼女のしていることが単なる過去の精算であるということを、何となく察していたからだ。加えて、これは俺の個人的な趣向だが、一人の人間に生涯を捧げることを誓い、妻という名を獲得し、そして失い、“未亡人”となるということがどういうことなのか、単純に興味があった。彼女の口から紡がれるその男にまつわる言葉のすべてが、何の変哲もない単語の羅列でありながらも、特別感に溢れ、唯一無二の色をしていた。自分に向けられた言葉でないことを自覚していながら、その特別感に酔いしれてしまいそうになると同時に、自分と彼女との間を隔てる決定的な違いの輪郭がはっきりとしていくようだった。


*****


アパートのベランダで毎夜晩酌をする彼女の出立ちは、大抵白のTシャツに膝上丈のハーフパンツというラフなものだった。だからといって決してだらしない格好というわけでもなく、髪を緩くまとめ、薄っすらと化粧もしており、どことなく他所行きの雰囲気も持ち合わせていた。脱力感と緊張感が絶妙なバランスで融和したその風貌は、有体な言い方をするならば“大人の余裕”として二十歳の俺の目に映り、大学のキャンパスで出会う同朋たちとの違いを浮き彫りにしていた。


「最初にきみに会ったとき、夫に似てるなって思ったの」


煙草の煙を燻らせながら、彼女はそう言った。その言葉に、鼓動が僅かに跳ね上がる。続けて「でも、全然違った」とも言った。


「飼っていた犬や猫が死ぬと、飼い主が寂しがらないように、神様がその子に似た子を授けるって、どこかで聞いたことがあるんだけど……そういうこともあるのかなって、少し期待しちゃった」


「私が失ったのは人間の夫だったけど」と声のトーンを下げる彼女に、「俺も犬や猫じゃなかと」と口を挟みたくなったが、わざわざ言葉にするのも野暮だと思い、辞めることにした。彼女のこういう自由奔放な感じが、俺は嫌いではなかった。夫を失い、身内との縁を切り、忌まわしい人間関係の呪縛から晴れて自由の身になった彼女は、まさしく“何者でもない何か”であるように見える一方で、今もなお“未亡人”という名前に縛られているようで、そのどうしようもない矛盾が俺を惹きつけて離さないのだ。

煙草の箱を空けて中を覗く彼女を、仕切板の穴から横目で見た。残りの煙草は二本。箱の中で煙草とライターのぶつかり合う乾いた音が鳴った。


*****


六畳一間の部屋が軒を連ねるこのボロアパートには、住人以外の人間がたびたび出入りする。一階の老夫婦の部屋には、月に二、三度、息子夫婦が顔を見せにくる。その隣の中年男性の部屋は近所の麻雀仲間の溜まり場になっているようで、週末になると数人の男たちが部屋に入っていくのをよく見かけた。二階の角部屋は夜職の女がしょっちゅう客の男を招き入れており、時折喧嘩をする声が聞こえてくる。ただ一部屋、半月ほど前から隣に住み始めた彼女の部屋だけは、人の出入りのある様子が全くと言って良いほどなかった。アパートの外で彼女を見掛けることもなければ、一方で生活音から室内の様子を推察するには情報が乏しく、彼女が日中何をしているのか、仕事に就いているのかすらわからないままだった。

住人以外の人間の訪問があるのは、俺の部屋も同じだった。その夜、俺はメッセージアプリで“今夜会いたい”と連絡をしてきた、どこで出会ったかも覚えていない女の肩を抱いてアパートの階段を昇っていた。女が居酒屋で発した「終電、なくなっちゃったかも」という言葉が合図だった。終電を逃すことに“かも”も何もあったものではないし、そう告げる女の声色が普段より数段柔らかく、身体にまとわりつくように湿度を孕んでいたのが答えだった。部屋に他人を招き入れることは、自分のテリトリーを侵されているようであまり良い気分ではなかったが、駅近のこの物件は、駅前の居酒屋で酒を飲んだ女たちと事に及ぶのに、あまりにも都合が良かった。


「着いたばい。ほら、しっかりしなっせ」


傍らの女の腕を解いて階段の手摺を持たせ、最後の一段に足をかけようとしたところで、二階の共用廊下に人がいることに気がついた。頭を上げると、隣の部屋の彼女と、その隣に見知らぬ男が立っていた。「こんばんは」と投げかけられたその声色は普段よりどこかよそよそしくて、挨拶を返すのも忘れ、少し遅れて会釈だけした。「まってよ、ちとせ」と後ろで俺を呼ぶ女の声に踵を返すさなか、視界の隅で彼女と男が部屋の中へ消えていくのを見届けた。

部屋に入るや否や、女は俺の頭の後ろで両手を組んで甘えた声でキスをせがんできた。片腕を腰に回し、もう片方を後頭部に添えて噛み付くようなキスをしてやる。そのままベッドに雪崩れ込み、女の服を脱がそうとブラウスのボタンに手をかけたところで、隣の部屋から物音がした。彼女の部屋だ。何てことのないただの生活音。室内を歩く足音、椅子の足が床を掻く音、台所のコンロに火をつける音。日頃からよく耳にする音だというのに、壁の向こう側で鳴るそれらに、身体中の全神経が集中しようとするのをやめない。彼女が部屋で何をしているのか、男とどんな会話をしているのか、二人はどんな関係なのか……次から次へと浮かぶ疑問符を、壁越しの僅かな音から推察して解消しようと試みる自分がいた。俺はその夜、初めて女を最後まで抱けなかった。


翌日の夜、隣のベランダの窓を開ける音に、考えるより先に体が反応した。まるでこの音がするのを待ち望んでいたみたいだ。少し時間をおき、冷蔵庫からビールを取り出してベランダに出ると、いつものようにを缶酎ハイを片手に夜風にあたる彼女の姿があった。人差し指と中指の間で紙煙草が夜闇に煙を吐いている。


「こんばんは」


昨晩と違って、普段どおりの親しみのこもった声色に少し安堵する。「昨日の男は誰なのか」「どういう関係なのか」「何をしていたのか」聞きたいことは山ほどあったが、喉まで出かかったそれらをビールの泡と一緒に飲み込んだ。先に口火を切ったのは彼女の方だった。「昨日一緒にいた子、彼女?」と、いとも簡単に昨晩の話題に触れられたことに、虚をつかれたような気分になる。彼女の問いに対して「そんなんじゃなか」とだけ答えると、内緒話をするような仕草とともに、小声でこう付け加えられた。


「声はもうちょっと抑えた方が良いよ」


このアパート、壁薄いみたいだから。

「きみも隅におけないねえ」と悪戯っぽく笑う姿に、どういうわけか、昨晩の情事の音を聞かれた恥ずかしさよりも衝動的な苛立ちが先立った。「お前さんだって、昨日」と、言いかけて、その続きを口にするのを辞めた。昨日、何だったというのだ。昨晩俺が女と事に至ったことと、彼女が男と部屋に入ったことには、何の関連性もないじゃないか。そもそも彼女と男の関係も、室内で何をしていたかも明らかでないし、それが何であろうと俺にはそのことについて追求する資格など一切ないのだ。けれども彼女は俺の言葉を聞き逃さなかった。「昨日?」と首を傾げる様子に、俺は“しまった”と内心頭を抱えたくなった。


「昨日のあの子なら、弟だけど」


「お、とうと……?」


「わたし、何も告げず急に引越したから、心配して連絡してきたの。親戚とはもう関わりたくないけど、弟だけはずっと親身になってくれていたから、落ち着いたら会おうと思ってて……」


「なんだ、変な勘違いしてしまったばい。弟さん、男前やったから」


本当は男の顔など暗くてよく見えていなかった。けれども、そんな風に軽口が叩けるくらいに、そのときの俺は安堵していた。


「明日の夜、台風がくるんだって」


トマト、しまっておかなきゃなあ。唐突にそう言って、彼女は空を仰ぎ見た。“ふっ”と嘲笑に似た息遣いで吐かれた煙。靄のようなそれが、風にさらわれて曇天の中に溶けていく様を、ぼんやりと眺めた。南の空には重く雲が立ち込めていて、赤く輝く一等星は姿を潜めていた。


*****


翌日の晩は彼女の言ったとおり、台風が近づいていた。家の外では風の音が鳴り止まない。まだ雨は降っていないようだったが、時折窓を叩きつけるその音は、室内の壁や床に反響し、築五十年近く経つこのボロアパートが今晩の台風に耐えられるか不安になるくらいだった。不意に、ベランダの方で何かが破れる音と共に小さな悲鳴が聞こえた。窓を開けて外の様子を見ると、ベランダの仕切板のプラスチックが風圧に耐えきれずに割れて、ほとんど枠だけになっていた。枠の向こう側で、彼女がプラスチックの破片を浴びて小さく丸くなってしゃがんでいる。


「何ばしよっと?危なかよ」


俺の声にハッとしたように顔を上げた彼女は、どういうわけか今にも泣き出しそうな表情をしていた。足元では、トマトの苗木が風を浴びて葉を揺らしている。只事ではないと直感が告げ、考えるより先に体が動いた。気付けば枠の向こう側に手を差し伸べていて、彼女はすぐさま半ばすがりつくような形で俺の手を取った。そのまま腕を引き、体ごとこちらに引き寄せる。彼女の体が仕切板の枠という境界を超えて”こちら側”に入り込んでくる様を、妙に落ち着いた心持ちで視ていた。その姿は、まるで薄いヴェールを掻い潜るように優美だった。ふわりと甘い香りが鼻を掠め、気付けば腕の中では小さな体が震えていた。


「どげんしたと?」


「トマトが……」


そう言いかけたところで一際強い風がベランダを吹き抜け、雨粒が数滴ぱたぱたと頰を濡らした。雨雲が近づいている。数分と経たずに、雨が降り始めるだろう。ひとまず雨を凌ごうと、彼女の肩を抱いて部屋に招き入れる。窓を閉めると同時に、外ではアスファルトが水を弾く音が鳴り始めた。

六畳一間のボロアパートの真ん中で、一組の男女が肩を寄せ合って呼吸をしていた。出会ってから数週間、一度も触れることのなかった彼女の肌の質感が今この手の中にあることが信じがたくて、確かめるように幾度も手のひらの感覚に神経を集中させる。


「あの人が死んだ夜のことを思い出したの」


震えた声で話し始める彼女の目は、瞬きをすることすら忘れてしまったかのように見開かれていた。暗がりの中で僅かな光を捉えて反射する虹彩の筋のひとつひとつがはっきりと見えるくらい近いところに、彼女の顔がある。


「風の強い日の夜だった。飛んできた木の枝に気を取られたトラックに轢かれて即死だった。警察から掛かってきた電話を取って……それで……」


もう何も話さなくて良いという意味を込めて、彼女の瞼の上に掌を被せて蓋をする。しばらくすると、抱いた肩越しに伝わる彼女の呼吸の起伏が緩やかになっていった。室内に立ち込める畳の井草の匂いが、雨足と共に湿気を孕んで色濃くなっていく。その中に一筋、蜜のような甘さを嗅ぎ取った。雨土や室内の生活臭に紛れて消えてしまいそうなくらい僅かだが、それでいて強烈に脳幹に訴え掛けるその甘美な香り。そして蜜の香に誘われた蜂のように、とうとう俺の理性の箍は自らを押さえつけることを放棄し、半ば無意識に近い状態で彼女の頬に手を添えていた。


「駄目だよ」


「なして?」


「きみ、二十歳かそこらでしょ?わたし、もうすぐ三十だよ」


“あの人に申し訳ないから”とは言わなかった。俺にとっては死んだ前夫の存在など無に等しいということを、彼女はよく理解していたのだ。


「歳は関係なか」


「ちゃんと同世代の子と付き合った方が良い」


「俺の周りの奴等と同じこついいよるんね。付き合うとか、彼女とか友達とか、歳がどうとか……」


思わず吐き捨てるような言い方をしてしまったことに、自分の幼さと未熟さを感じる。


「それでも、わたしは三十手前の未亡人で、きみは二十歳の大学生だよ」


その事実に変わりはない。彼女は静かに告げた。彼女はどこまでも大人で、俺よりもずっと成熟していた。


「それを覆せる理由があればよかと?」


半ば衝動的にローテーブルの上の封筒を手に取って突き付けた。


「そんなら、これで俺を買ったと思えばよか。元々お前さんの金たい。俺は受け取ることを了承しとらん。ポストに入っとったたけったい。生活費として使えっちゅうんなら、これは受け取らん。俺を買ってくれるなら、受け取るばい」


自分でも滅茶苦茶なことを言っている自覚はあった。それでも、少しの沈黙の後、彼女が僅かに頷いたのを見逃さなかった。その晩、俺は未亡人の女を抱いた。


*****


目が覚めると彼女の姿はそこになかった。ベランダづたいに自分の部屋に戻ったのだろう。抜け殻のようにぽっかりと空いた布団の空洞を眺めて、昨晩の出来事が夢でなかったか確かめるようにシーツの皺を指でなぞった。情事のことは、正直よく覚えていない。彼女の肌の質感も汗の温度も、行為中の反応すら、薄ぼんやりとした記憶の靄の中に閉ざされてしまっていて思い出せなかった。ただひとつ、組み敷いた背中に滴り落ちた自分の汗が、肩甲骨の窪みに沿って滑る様を除いては。

彼女がここにいた痕跡を確かめるかのようにシーツを手繰り寄せ深呼吸してみたが、自分の家の洗剤の香り越しに畳の井草の匂いを嗅いだだけだった。


次に彼女にあったら、何と声をかけようか、どんな話をしようか。そんなことを考えながら、夜ごと缶ビールを片手にベランダに降りたが、数日経っても彼女の姿を見ることはなかった。それどころか、ここ数日間、隣の部屋からは物音ひとつしない。日を跨ぐごとに、嫌な予感が胸の内側に滲み出て広がっていく。現実を受け入れることを拒むように、もともと空けることの多かった自宅への足が益々遠のいた。二週間が経った頃だった。早朝、隣の部屋から壁越しに足音や話し声が聞こえ、反射的に飛び起きた。足音は一人ではなかったし、話し声はどう考えても複数の中年男性のものだったが、着替えることも忘れてベランダに出る。ベランダの窓を開けたところで、仕切枠の枠越しに作業着を着た男と目が合った。男の胸ポケットには「◯◯ハウスクリーニング」と言う文字。


「あ、おはようございます。起こしちゃいましたか?騒がしくてすみません」


「いえ」と生返事を返すと、男は「派手に割れちゃいましたね。この間の台風かな……」と、割れた仕切板の枠を揺らして残っていたプラスチックの破片をはたき落とした。


「業者に頼んで新しいものを取り付けてもらうんで、それまでにこれ、移動させておいてください」


そう言って男は俺の足元を指差した。視線を落とした先には、プチトマトの鉢植えがあった。ご丁寧に俺の部屋のベランダ側に置かれた鉢植え。その縁には煙草の箱が立てかけられていた。


その晩、缶ビールを片手にベランダの窓枠に腰掛け、煙草の箱を開けた。一本だけ残ったそれを指でしばらく弄び、咥えると、部屋の片隅に置いてあったライターを手に取って火をつけた。深く息を吸い込み、数秒間、煙を肺に留める。長い溜息に乗せて煙を吐くと、白煙は風のない空気中をいつまでも漂い、俺の身体にまとわりついた。ニコチンが血流に乗って頭の先端までぞわぞわと立ち上り、思考が冴えていくのを感じる。冴えた頭は冷静にその事実を受け止めた。彼女は俺の前から姿を消したのだと。


*****


コンビニ弁当の蓋を開けると、ラベルシールに隠れていたプチトマトと対面した。赤く艶めく球体は、この小さな箱の中で唯一の異彩を放つものだった。指先で摘んで歯を立てると、割れた果肉の隙間から“ぴゅっ”と果汁が飛び出し、口内に甘味と共に青臭さが広がっていく。トマトのなくなった弁当箱は、途端に味気のないものに見えた。スーパーやコンビニでプチトマトを目にするたびに、今でも彼女と過ごした二十歳の夜のことが呼び起こされるようで、何となく避けるようになった。嫌いじゃない、けれどもあまり好きではない。結局、あのときのトマトは一度も実をつけることなく枯らしてしまった。


あれから十年、当時あれだけ嫌がっていたというのに、俺は結局一塊のサラリーマンとなっていた。会社勤めは時折息が詰まりそうになることもあるが、それでも何とか“普通の人”のようにやっていけていると思う。案外“普通の人”も悪いことばかりでもなくて、かつての尖っていた感情の角が取れて、幾分か周囲や自分自身の身に降りかかる色々なことに対して寛容になり、随分と生きやすくなったと思う。“何者でもない何かになりたい”という当時の俺の願望は、ある種今の形が最もそれに近いのかもしれない。

彼女が部屋を出たあの日から、俺の心には得体の知れない空虚さが棲みついて離れなくなった。それは、あの人を見失って初めて得た喪失感というよりは、元々そこにあった空白に気がついたと言う方が正しいように思う。空虚な質感を抱いたまま経過する時間は、穏やかで、僅かながらの幸福を孕み、そして味気のないものだった。プチトマトを無くした弁当箱のように。


仕事を終えて職場を出ると、辺りは既に日が落ちて頭上には月が昇っていた。金曜日の夜20時。オフィス街は、仕事を終え居酒屋に向かう人々の嬉々とした話し声と、足早に家族のいる自宅へと向かう人たちの靴がアスファルトを打ち鳴らす音で溢れていた。そのどちらにもなることができない俺は、しばらくの間街路樹の脇で立ち尽くすと、ゆったりとした足取りで歩き始めた。今年の夏は随分と冷える。半袖のワイシャツの袖口をなぞる夏風に乗って、早咲きの金木犀の香りが鼻を掠めた。オフィス街を抜けて住宅街に入ると、建物の背がぐんと低くなり、前を向いて歩いていても星の瞬きが目に入るようになる。行く先の空に見えるのは、射手座だろう。二十歳のあの頃より、少しだけ星座に詳しくなった。射手座のケイローンがつがえる矢の先、南の空の低い位置に、赤く輝く星を見た。名を、“アンタレス”という。

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