top of page

紅牡丹

姉さんの振袖の前撮りをするついでに買い物に行く。色々と荷物が増えるだろうからお前にも手伝って欲しいと頼まれ、父親の運転する車に乗り込んだ。家族揃って何処かへ出かけるのは久々のことだった。先に買い物を終えたのち、俺はスタジオの隅に置かれた椅子に腰掛けて撮影の様子をぼんやりと眺めていた。「弟さんもご一緒にどうですか」と誘われたが、何の身支度もしないまま出てきてしまったので丁重に断った。着物を着てかしこまる姉を見つめる両親は、どこか感慨深い表情をしており、そんな彼らを前に彼女は少し照れくさそうにしていた。“かしゃん”という乾いた音がして姉の姿がフィルムに収まると同時に、彼女の着ている真っ赤な着物がフラッシュの光を一斉に浴びた。


本当に真っ赤だった。赤い布地に申し訳程度に白い桜の花弁が舞っているだけの質素で安っぽい着物。おそらく、両親にあまり迷惑を掛けたくないからと一番安いものを選んだのだろう。姉らしい配慮だと思った。撮影場の真ん中で表情を固くさせる彼女は、赤に飲まれていた。正直に言って、似合っていない。厚ぼったい化粧のせいも多少あるだろうが、着物の色が派手すぎる。元々痩せ気味で、背丈はあるが華奢な彼女の身体つきにその着物は少々荷が重すぎて、着物を着ていると言うよりは着物に着られていると言った方が良いような印象を受けた。彼女の蒼白な顔は、真っ赤なそれにずぶずぶと飲まれていった。両手の親指と人差し指で四角を作り、その中に姉を閉じ込めた。“かしゃん”とシャッターが下ろされる。手の中で、彼女はぎこちなく笑っていた。


帰宅するなり、姉はワックスやらスプレーやらでがちがちに固まった髪を手櫛で崩してゴムで無造作にひとくくりにした。彼女は決してだらしのない人ではなかったが、こういう大雑把なところを見ていると、姉弟でこうも違うものかと思ってしまったりもする。「暑い、暑い」と呻きながら物干しに掛けてあった白いTシャツを掴み、皺を伸ばしもしないで着替えると、冷蔵庫の奥から缶酎ハイを取り出して喉を鳴らして飲み始めた。


「昼間から飲んでいいのか」


「いいの、いいの。今日は何だか疲れたから」


アルコール特有の苦味が好きになれないからと、二十歳になってからもほとんど酒を口にしたことのない姉だったが、今日は慣れない格好をして相当疲れたのだろう。無地のTシャツにショートパンツという洒落っ気の一つも無い格好で缶酎ハイを片手にへらへらと笑うその姿は、少々品には欠けたが、重たい着物を着込んで息を詰まらせていたそれよりもずっと姉らしいと感じた。「生き返るねえ」などと言いながら襟首のところをはたはたと振って涼んでいた彼女が、不意に「あっ」と短く声を漏らして動きを止めた。


「やだ、口紅付いちゃった」


見ると、純白のTシャツの襟の少し下に半円の形をした赤い染みが付いていた。おそらく、先程の化粧の口紅がまだ唇の端に残っていて、着替える際に触れて付いてしまったのだろう。彼女はそれを見て少し表情を曇らせ、「お母さんに怒られちゃうなあ」と呟いた。目の眩むような真っ白なTシャツに“ぽつ”と落とされたそれは、まだ誰も足跡を残していない明け方の雪野原に散った赤い牡丹の花弁を連想させた。花弁を見つめる彼女の伏せた瞼から伸びる睫毛がふさふさと長いのと、少し濡れた真っ黒な遅れ毛がこめかみの辺りから垂れ下がって微かに揺れているのを見て、ぞっとするような何かを感じた。陶器のように滑らかな首筋はすっと迷いのない曲線を描いており、対照的にTシャツの裾口から伸びる腕は細く骨張っていた。うっすらと汗ばむ肌が、情事のときのそれを思い起こさせて官能的だった。同時に、身内である姉にそんな感情を抱いてしまったことへの僅かな嫌悪感が湧き上がる。俺はそのとき間違いなくこの世で一番眩しいものを見ていた。


もう一度洗濯しなければとTシャツの裾に手を掛けて着替えようとするのを「少し待ってくれ」と止めた。先程したように両手の親指と人差し指で四角を作り、その中に彼女を閉じ込める。


「何してるの」


蓮二、と語尾を上げて俺の名を呼ぶ姉の唇はゆるやかに弧を描いていていた。


「いや、何も」


そう言って四角を解く。彼女は「変なの」と呟き、鼻歌交じりに着替えながら洗面所へと向かっていった。かしゃん、と少し遅れてシャッターを切る音が聞こえた。


居間のローテーブルに置かれたままの飲みかけの缶酎ハイに視線を落とす。飲み口の端に、赤い口紅がわずかに残されていた。缶の溝に溜まった酎ハイに、ゆっくりと紅色が滲んでいく様をじっと眺めた。部屋の照明を反射して白光りするアルミ缶の上で、牡丹の花が崩れるように、ほろほろと口紅が解けていく。

ふと、幼い頃のある記憶が蘇る。小学生にあがったばかりの頃だったと思う。家の裏にある小さな神社で、姉と二人でよく遊んでいた。その日は、夕方までかくれんぼをしていた。敷地中を探しても姉の姿を見つけることができず、根を上げた俺は、鳥居の前の階段に腰を下ろすと、手を大きく三回叩いた。それが二人の間での降参の合図であり、その拍手の音が聞こえない範囲には隠れてはいけないというルールでもあった。しばらくその場で待つと、鳥居の脇の藪の中から姉が出てきた。ところがその右腕は、木の枝か何かで引っ掻いたのか、赤く血で染まっていた。「姉さん、それ」と傷口を指差すと、姉は特段驚いた様子も見せず「枝で引っ掻いたのかも」と言って石畳を駆け上がり、境内の手水舎に入っていった。後を追って手水舎の屋根の下まで来ると、姉は左手で柄杓を持ち、右腕の傷口にばしゃばしゃと水をかけて土や木葉の欠片を流していた。今思えば罰当たりな行為だが、まだ幼かった俺たちは、それが何のために置かれたものであるのかを理解していなかった。痛くないかという問いに対して「ちょっと沁みるかも」と、僅かに眉をひそめて笑う姉の表情を、今でもよく覚えている。透き通るような真っ白な肌の上で傷口から染み出す赤い血がゆっくりと水に滲んでいく様と、缶酎ハイの溝の口紅がアルコールに混じってゆく様子が重なって見えた。


しばらくすると、姉が先ほどのTシャツを着たまま再び居間に現れた。


「着替えるんじゃなかったのか?」


「どうせもう外出しないんだから、夜まで着てって。母さんが」


「そうか」


ソファに腰掛ける姉を目で追っていると、ちょうど缶の縁に唇を当てたばかりの姉と視線が重なった。彼女は俺と目が合うなり、先ほど俺がしたように両手の親指と人差し指で四角を作り、その穴から右目を覗かせた。四本の指の間から、吸い込まれそうなくらいに真っ黒な瞳がこちらを覗いている。


「蓮二の真似」


何をしているかと問うよりも先に答えが返ってきて、少し遅れて“かしゃん”と、耳の奥でシャッターを切る音が聞こえた。

Comments


bottom of page