化身
- echo0607
- 2 日前
- 読了時間: 10分
中庭を抜けて西門へと続く石畳の道、銀杏並木の中に埋もれるようにして、一本だけ、桜の樹が植えられていた。どうしてここだけ他と合わせなかったのか、誰もが一度は不思議に思ったことがあるだろう。生徒たちの間では、ここで首吊り自殺があっただとか、この下に死体が埋まっているだとか、根も葉もない噂話が絶えなかった。
春を迎えると、待ってましたと言わんばかりに薄桃色の小さな花が枝の先端までを埋め尽くす様は圧巻だった。一方で、人気の少ない場所でひっそりと息を潜めていたそれが、突然人が変わったように息を吹き返すものだから、噂も相俟って少々薄気味悪さも感じた。陽が落ちた頃などにそこを通ると、古びた街灯に照らされて、暗闇の中に真っ白なそれが忽然と浮かび上がり、まるで幽霊を見ているような気さえした。
その日は後輩たちに混じって部活の自主練習に熱が入るあまり、片付けを終えた頃には、登下校に使用している北門の鍵は閉められてしまっていた。あまり気乗りはしなかったが仕方あるまいと、校舎内を突っ切って西門へ向かう。陽はすっかり落ち切っていて、辺りは真っ暗だった。校舎を背に、門へ続く通路の石畳を踏んだところで、背後から追い風が吹いた。ジャージの布地が肌に張り付き、ひやりとした感覚と共に一瞬だけ体温が奪われる。頬を撫でる髪を手で払いのけた。一体どこから風が?と、背後を振り返る。見慣れているはずの校舎のモルタルの壁が、妙にのっぺりとして見えた。こういうときは気にしすぎてはいけないと、前を向いて石畳を早足で歩く。十数歩進んだところで、十メートルほど前に“それ”が目に入った。
闇夜の中に、ぽつんと佇む一本の桜の樹。枝を埋め尽くす小さな花は、昼間の薄桃色を忘れたかのような純白で、周囲の暗がりの一切を無視して眩いほどだった。街灯の光の帯の中でちらちらと舞う花弁が、真冬の雪の煌めきを思わせる。辺りが暗ければ暗いほど、“それ”の放つ存在感は際立っていた。まるで暗闇を切り取って、別の時空から持ち込んだ桜の樹を植えたみたいだ。一言で言うなれば“美しい”のだが、美しさの中にこの世ならざるものの気配を感じずにはいられないのだ。
幽霊や怪奇現象の類を信じる方ではなかったが、言い様のない不気味さに背中を押されるようにして、歩幅は広く、歩調は早くなった。急ぐほどに足裏から伝わる石畳の感触が鈍く、足取りがふらふらと頼りなくなる。門を出るまでのあと十数歩が、普段よりずっと遠くに感じた。早足で桜の樹の横を駆け抜けたそのときだった。視界の片隅に「黒い傘」を捉えた。
正確には、“黒い傘を差した女”が立っていた。艶のない傷んだ長い髪を無造作にひとつにまとめ、制服に身を包んだ女。顔は見えなかったが、僅かに見えた口元からしてかなり年上であることは確かだった。皺だらけのワイシャツ、プリーツの伸び切ったスカート、ローファーの先端は所々合皮の表面の艶が禿げていた。言うなれば、“見窄らしい女”が、桜の樹の下で真っ黒な傘を差して佇んでいた。見間違いではないかと反射的に振り向こうとしたが、門の敷居を跨いだ瞬間、身体中から力が抜け、振り向く気力すら無くなっていた。結局その後どうやって家路についたのかあまりよく覚えていないのだが、自室のベッドに辿り着くなり泥のように眠りこけたのだった。
翌朝、昨晩の出来事は幻だったのではないかという疑念を晴らすために、再びその場所を訪れた。石造の門の向こう側に昨日と同じく黒い傘が桜の花弁を被っているのが見えたとき、「やはり」とやや落胆するとともに、この世ならざるものを目にしている(かもしれない)という非日常に触れたことに、好奇心とも高揚感とも言い難い胸のざわめきを感じた。
次の日も、その次の日も、女は同じ場所に立っていた。そして、日を重ねるごとに女の風貌に対関する“あること”に気がついた。少しずつ、だが確実に“若還って”いるのである。傷んでまとまりのなかった髪が光を束ね、土気色の乾いた肌は、次第に皮膚の下の静脈を透かすようになった。かさかさにひび割れた唇は、熟れた果実のようにふっくらと張りが増している。最初に見たときは老婆と見紛う風貌だったが、今では自分と同世代か、少し上くらいに見える。変化があったのは女の体だけではない。寄れて不規則なつづら折りになっていたスカートのプリーツが等間隔に並び、ローファーは先端までぴかぴかになっていた。女の風貌と対照的に、花が散り枝が剥き出しになっていく桜の樹に、春の終わりがもうすぐそこまで近づいていることに気がつく。
目深に差した傘の縁に隠れて、女の顔は見えなかった。来る日も来る日も、女は無言でただその場所に立ち続ける。傘の上に降り積もる花弁が、時折風に吹かれて黒い布地の上を踊った。黒と白のくっきりとしたコントラストが星月夜を思わせる斑点を幾重も模り、ぞっとするほど美しかった。
その日もやはり女の様子が気に掛かり、西門から登校することにした。角を曲がって、石造の門が目に入ったときだった。背後から「ユキムラブチョー」と名前を呼ばれる。よく通る、底抜けに明るい声。「ハヨーゴザイマス」と、傍でラケットケースを背負い直す彼は、一学年下の後輩である“切原赤也”。この後輩は、部活を引退した今でも俺のことを「幸村部長」と呼ぶ。
「今日も自主練スか?」
「まあね」
「春休みなんだから、ちょっとは休んだっていいと思いますけど」
「そうも言っていられないよ」
“進学したら、すぐに高等部でも部活が始まるからね”と言うと、赤也は物憂げな表情を浮かべて口元をもごもごとさせた。「寂しい」とでも言いたいのだろう。並んで歩きながら他の三年生の近頃の様子などについて世話話をしていると、石造の門の向こう、桜の樹の下に、普段と変わらず例の黒い傘が白い花弁を被っているのが目に入った。俺の視線の行く末を、赤也の黒目が追う。するとあろうことか、彼は「あの人、いつもあそこに突っ立ってんスよね」と言うではないか。驚きのあまり、門の敷居を跨ぐ足がぴたりと止まる。
「どうかしました?」
と、頭上にクエスチョンマークを掲げたような表情の彼。「いつから彼女はここにいるのか」と問うてみたが、「さあ、いつからだったかな」とはっきりしない答えと共に首を捻るばかりだった。それでも彼が、黒い傘の女がそこに立っていることを至極当然のように“受け入れている”ことだけは確かだった。人通りが少ない場所とはいえ通学時間帯はある程度人の往来がある中、よくよく通行人を観察してみれば、何名かは「おっと」「すみません」と、そこに人がいるかのような挙動で女の脇を避けて歩いていた。少なくとも、傍らの彼と、ここにいる彼らに、“それ”が見えていることに間違いはないようだ。誰も女の異様な姿に狼狽えたり驚いて足を止めたりしないことから、彼らもまた、赤也と同じく彼女がそこにいることを当然のように“受け入れている”のだろう。もしかしたら、自分と彼らには見えているものが違うのかもしれないと、赤也に彼女がどんな風に見えるか尋ねようかとも考えたが、この不可思議な現象をどう言葉にすべきか思案するうちに、門を通り過ぎて校舎の前まで来てしまった。「俺、部室の鍵取りに行くんで!」と、駆け足で校舎の中に消えていく彼を見送り、再び桜の木の方を振り返ると、やはり、春の陽気に似つかわしくない黒い傘が佇んでいるのであった。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」というある短編小説の一節を思い出した。
桜の花があまりにも美しく咲くものだから、きっと樹の下には屍体が埋まっていて、その養分を吸い上げているからに違いないという作者の個人的観測を謳ったものである。生命の美しさの根源を、この世ならざるものへの恐怖や悍ましさと結びつけるその感性に、初めてこの小説を読んだときには舌を巻いたものだった。
そして、そのとき俺はふと考えたのだ。桜の美しさが人や動物の死から成るものだとしたら、その美しさの破片とも言い得る花弁が落ちて腐りゆく先にある地中からは、何が生まれるのだろうか。輪廻転生という言葉を信ずるなれば、地中からは再び何らかの生命を宿したモノが生まれてもおかしくはないのではないか、と。
そんな俺の考えに共鳴するかのように、木陰に立つ彼女の風貌は、日を追うごとに生命力を増していくのであった。
高等部の入学式を終え、一週間ほど経った頃だった。その頃には、例の桜もすっかり花を落とし、枝に僅かに残った花弁が落ちるのを待つだけとなっていた。落ちた花弁がおがくずのように積もって根の隙間や石畳の窪みに入り込んでいる。いつしか西側の門から登校するのが日課となり、その日も西門をくぐって同じ敷地内にある高等部の校舎へ向かった。中等部と高等部の分岐点まで来たところで、はたと足を止めて来た道を振り返る。例の樹の下に、女の姿はなかった。
教室に入るなり、室内の空気がそわそわと落ち着きのないことに気がつく。何でも、今日からクラスメイトが増えるのだという。と言っても転入生の類ではなく、初日から欠席していたとある生徒が登校してくるのだそうだ。教室の後方、窓側から二列目の席は、入学式当日からずっと空席だった。数少ない外部からの進学生というその生徒は、前の中学で卒業式の後事故に遭い入院していると、担任の教師から知らされていた。その生徒が、今日ようやく退院して登校できるようになったのだという。名前以外何の情報もなかった同級生が一体どんな人物なのか、クラスメイトたちは好奇心を隠しきれていない様子だった。
「ホームルーム始めるぞ」という声とともに入口の引戸が開かれる。教壇に向かう担任の教師の後ろを遠慮がちについて歩く生徒の姿を見るなり、“ぞわり”と全身の毛が逆立った。ワイシャツの裾の中に手を潜り込ませると、手首あたりまでびっしりと鳥肌が立っていた。固唾を飲む音が、周りにも聞こえてしまうのではないかと思うくらい、耳骨の中で大きく響く。それもそのはずだ。教壇に立ち、節目がちに教室の床の木目を見つめるその生徒こそ、昨日まで桜の樹の下に立っていた“彼女”だった。頭の後ろでひとつにまとめられた真っ黒な髪。白く透き通った肌は、緊張しているのか頬の辺りがうっすらと上気していて、薄桃の花弁を思わせた。アイロンの行き届いたワイシャツ、等間隔に並んだスカートのプリーツが膝頭をくすぐり、下ろしたてのぴかぴかのローファーが眩かった。
そしてもっと驚くべきことに、クラスメイトの誰もが彼女に対して“初対面”であるかのような反応をしていたのである。「緊張してる?」「よろしくね」「事故、大変だったね」と、口々に声をかける彼らの口調は、初めて会った人間に対するそれだった。西門を通って登下校する生徒は数名いたが、誰一人として彼女が例の女であることに気付いている様子はない。自分だけ見えているものが違うのではないかと、信じがたい光景に眩暈がしそうになる。
「◯◯◯◯と言います。よろしくお願いします」
鈴の鳴るような声が、教室中の空気を支配した。自己紹介をしてお辞儀をした後、緊張がほぐれたのか僅かに微笑む。目の下の頬が膨らみ、唇が緩く弧を描いた。赤子のような笑みだった。
担任に促されて自分の席につく彼女を目で追いながら、ふと、中学三年生の春のことを思い出した。
大病を患い入院していた俺のところへ、ある日テニス部の面々が見舞いに訪れた。そのうちの一人、後輩の赤也は見舞いの品として、あろうことかルクリアの鉢植えを持参していた。植物が土に根を下ろす様が、“根付く”つまり“寝付く”と、病気が長引くことを連想させるため、一般的に鉢植えは見舞いの品には不適切とされている。「病人に鉢植えとは縁起が悪い」「世間知らず」と、他の部員たちからは散々の言われようだったが、「気持ちが嬉しいから」と、俺はそれを受け取ることにした。元々植物を育てるのは好きだったため、入院中の退屈凌ぎにはうってつけだと、寧ろありがたかったのだ。しかし、彼からもらった鉢植えは、水をやってみても肥料を変えてみても一向に成長しなかった。それどころか、寧ろ日に日に花は首を垂れ、枝葉は水気を失って乾いていくのである。ついに植木鉢の中のそれが骨と皮だけの土気色の塊になったとき、俺は病院を退院したのだった。がらんどうの植木鉢の中を眺め、「はて、この中にはどんな色の、どんな匂いの花の苗が入っていたのか」と一瞬だけ思いを巡らせたことを、今でもよく覚えている。
そして、退院後初めて登校した俺を見るなり、後輩の切原赤也はこう言ったのである。
「幸村部長、何だか生まれ変わったみたいッスね」
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