小惑星にバラ園は無いけれど
- echo0607
- 2 日前
- 読了時間: 9分
「まったく……」
溜息混じりに、呆れた様子で、そして少しの優しさを滲ませながら、彼は言うのだ。
「あなたという人は」
“呆れて物も言えません”
ここまでが、彼、観月はじめが口にするいつものワンセットだった。
現に今目の前の私に物申しているではないかと口答えしてみたが、「そういうことではありません」と、ぴしゃりと跳ね除けられてしまった。
「明日提出のレポートが、まだ一文字も書けてないだなんて」
“僕が手伝うと言わなかったら、どうするつもりだったんです?”
白く骨ばった左手の指先でテーブルをコツンと叩く。トレードマークの癖毛に絡ませた右手 手の指の間からこちらを覗く視線はいつにも増して鋭かった。素直に謝罪の言葉を口にすると、彼は満足したのか、鞄の中からテキストを取り出して講義の概要を説明しはじめた。慌ててノートにメモを走らせる。
先刻彼は「自分が手伝うと言わなかったらどうするのか」と問うたが、彼が私の頼み事を決して拒まないことを、私は知っている。その証拠に、普段は真っさらで綺麗なままのテキストには、要点となる箇所にいくつも付箋が貼られていた。きっと私にレポートを手伝ってほしいとせがまれて準備してくれたのだろう。
観月はじめとの出会いは中学の頃まで遡る。
「観月はじめです。よろしくお願いします」
よく通る澄んだ声が、一瞬にして教室中の空気を支配した。
どこか女性的な優美さを感じさせる整った容姿、丁寧な言葉遣い、落ち着いた動作。観月はじめは、教室の真ん中で馬鹿騒ぎをするような男子たちとは一味も二味も違う存在として女子生徒たちの間で一目置かれていた。かくいう私もそのうちの一人だった。しかし、そんな好印象だった彼の外面も、日を追うごとに剥がれていくことになる。中性的で穏やかな見た目とは裏腹に、彼は頑固なまでに意志が強く、腹に黒いものを抱え、口にする言葉には棘があった。有り体な言い方をすれば“扱いづらい”存在として認知され、次第に彼に対する好奇の目は影を潜めていくことになる。一方私はというと、周囲の反応とは裏腹に、日を重ねるごとに観月という存在に惹かれていった。「綺麗な薔薇には棘がある」とはよく言ったもので、彼の尖った言い回しは、ある種彼の健気で柔らかい部分を守るための武装であり、それこそがもっとも人間らしく、そして愛おしいものとして私の目に映ったのだ。同級生や友人たちが眉を顰めるような彼の皮肉っぽい言い草も、私はさして気にならなかったし、寧ろ鋭利な言葉の裏側に忍ばせた本心に気づいているのが自分だけであるという事実に、密かに優越感すら感じていた。
観月とは中学で知り合い、同じ高校・大学に進学し、気づけばお互いの自宅を行き来するまでの仲になっていた。少し背伸びをしてある程度名の知れた私立大学に進学した私は、学費を稼ぐために日々バイトに明け暮れ、決まってテストや課題提出の直前になると観月に手助けを求めた。彼は、「まったく」とか「仕方ありませんね」とかいう前置きとともに心底嫌だというように眉根を寄せては、しょっちゅう私の我儘や頼み事を聞いてくれる。捻くれ者で言葉もきついが、面倒見の良い一面もあるのだ。そのことに気づいてからは、益々、意図的に、彼の優しさに寄りかかるようになった。“意図的に”と称したのは、そうすることで少しでも彼の気を引きたかったからだ。
「ひとまず要点は全て教えました。あと一時間もあれば、あなたなら書き上げられるでしょう」
そう言って彼はテキストを閉じ、立ち上がってキッチンへ向かった。
「うちで終わらせていってしまいなさい」
どうせ家に帰ったら“ひとやすみ”だの言って寝てしまうでしょう。と、付け加えられる。残念だが、図星である。
キッチンから聞こえる包丁の音に耳を傾ける。トントンとまな板を叩く小気味好いその音に合わせるようにノートパソコンのキーボードを弾いた。ピアノの伴奏者になったような気分だ。しばらくすると、じゅうじゅうと鉄のフライパンが油を弾く音と共に、香ばしい匂いが室内に立ち込めた。ベーコンとたっぷりの玉葱、カルボナーラだ。私は観月の作るそれが大好物だった。卵と具材とパルメザンチーズだけの、生クリームを使わないカルボナーラ。彼曰く、それが本場の作り方らしい。
レポートが終わったのを見計らったかのようなタイミングで料理が出来上がり、テーブルに並べられた。キッチンの奥で、観月は両手で二本のワインボトルを持って交互に見比べている。そのうちの片方を冷蔵庫にしまうと、こちらを向いて尋ねた。
「ハーブティーかワインかビール、どれが良いですか?」
そう言いつつも、彼の右手は既に冷蔵庫のドアポケットを探っていた。
「ビールが良い!」
「でしょうね。グラスは、要りませんね」
「うん、要らない」
こちらに向かってくる観月の右手にはワインのボトル、左手には缶ビールが握られていた。観月がお酒を飲むなんて、珍しい。全く飲まないというわけではないが、稀に嗜む程度、せいぜいグラスワイン一杯くらいしか飲んでいるところを見たことがなかった。ボトルが手に握られているということは、二杯目、三杯目があるということだ。
「観月がお酒を飲むなんて、珍しいね」
何かあった?と問うてみたが、聞いているのかいないのか、彼は私に背を向けてキッチンにワイングラスを取りに行ってしまった。卓上に置かれた缶ビールを手に取ると、ひやりとした感覚が指先から伝わり、身体中を駆け巡った。よく冷えている。タブに指をかけて引き上げ、「乾杯」と言って観月のワイングラスに缶ビールを近づけると、彼は渋々といった様子でグラスをこちらに突き出した。観月曰く、ビールは低俗な飲み物らしい。アルミ缶とガラスがぶつかる間抜けな音と共に、缶ビールの口から泡が溢れる。
フォークでパスタをぐるぐると巻き取って口に運ぶ。卵の風味と燻されたベーコンの薫り、たっぷり入った玉葱の甘味が口いっぱいに広がった。思わず「おいし」と言葉が漏れる。彼は自分の皿には手をつけず、私が一口目を食べ終えるのを待ってからカトラリーに手を伸ばした。骨ばった手の中でフォークはくるくると器用にパスタを巻き取り、巻き終わる頃にはちょうど一口サイズになっていた。静かに咀嚼し、嚥下すると、彼は満足げに小さく頷いた。「上出来」と言ったところだろうか。
今日の観月は、少々様子がおかしかった。思えば、玄関で私を迎え入れたときから、普段は感じない緊張感みたいなものがあったように思う。元々食事中の会話は少ない方だったが、今日はいつにも増して沈黙が肌に沁みる。普段なら一杯で片付けられるグラスに、二杯目、三杯目が注がれ、食事を終えてもそれは続いた。まるで何かに急かされて酔いが回るのを待ち焦がれているかのような、そんなふうに見えて仕方がない。終いには、私がほとんど手をつけることなく、ボトルワインを一本開けてしまっていた。
「観月、飲み過ぎ」
放っておいたらそのまま二本目のボトルを開けかねないと危惧した私は、今更遅いと知りながら、二口分ほど残ったワインを一気に煽ろうとする観月の手首を掴んで制した。すると彼はグラスをテーブルに置き、そっと包むように私のそれを握った。突然のことにたじろぐと、私の緊張が伝わったのか、次第に握る力が強まり触れている皮膚が引き攣れる。骨張った細い指の中で一回り小さな手を身じろぎさせると、彼は、はっとした様子で手を離し、そのまま顔を隠すように手の甲を額につけた。ウェーブのかかった前髪の間から覗く瞳は、こちらを見てはいなかった。私の視線から逃れるように、卓上の一点を見つめている。どれくらいの間そうしていただろうか。長い沈黙ののち、彼はついに口を開いた。何を言い出すのかと思いきや、「僕は惨めた」などと、絞り出すような声で言うのだ。彼は捻くれ者ではあったが、自虐の言葉を口にすることは少なかった。寧ろ、自信に満ち溢れている方だと思う。それ故、自分のことを「惨めだ」などと言う彼に、私は心底驚いた。どうしてそう思うのかと問うと、思わぬ返事が返ってきた。
「お酒の力を借りないと、あなたへの好意すら満足に伝えられない」
“****”
どういうことか聞き返すより早く、彼の唇が愛の言葉を象るのを、私は見逃さなかった。
口にしてしまったが最後、逃れられないと悟ったのか、その瞳は今度こそしっかりとこちらを捉えている。視線が重なったのを合図とするかのように、彼は突如前髪をくしゃくしゃと掻きむしった。普段の彼の丁寧な振る舞いからは考えられないその仕草に、剥き出しの本心を垣間見ているような気がして、背徳感と高揚感が妙なバランスで共存する感覚に胸が疼く。
「い、いつから?いつから私のこと好きなの?」
「中学のときからです」
「嘘、気が付かなかった……」
「でしょうね」
彼はいかにも不服であるというように溜め息混じりに答えた。
「どうして私なの?私、ずいぶんと我儘で、観月にとって良いところなんて、これっぽっちも無いと思うけど」
“見くびらないでください”と、更に不機嫌さを滲ませた。
「僕がこれまでどれだけあなたの我儘に付き合ってきたか、知らないわけじゃないでしょう。嫌だったら、わざわざ明日提出のレポートの手伝いだなんて馬鹿げた頼み、引き受けませんよ」
“ああ、言っていることがめちゃくちゃだ”と嘆いて、右手を益々深く髪に絡ませていく。
前髪を掻く指の間から、赤く火照った肌が見えている。こちらを見る目は、アルコールのせいなのか少し潤んでいた。下瞼の淵に溜まった涙が黒眼の表面に映り込んで、湖面の揺らめきを見ているようだ。くしゃくしゃに絡まった前髪、赤らんだ顔、今にも泣き出しそうに涙を湛えた目。まるで赤子のようではないか。先ほどまで渦巻いていた高揚感が背徳感を押しやって大きくなるのを感じた。“可愛らしい”“愛おしい”“噛みつきたい”高揚は衝動性と攻撃性を纏い、私の胸を支配していく。それと同時に、このひ弱でプライドに塗れた愚かしい男を守らなければという、至極真っ当で理性的な欲求が顔を出した。
前髪の中に埋もれた彼の右手を掴み、自分の頬へと引き寄せる。余程緊張していたのだろう。彼の指先はお酒を飲んでいたとは思えないほど冷たく、強張っていた。私の行動に呆気に取られ、狐に摘まれたような顔でこちらを見る観月を他所に、掴んだ右手に指を絡ませ、ぎゅっと頬を押し当てる。こうすれば、何も言わなくとも彼が益々困惑することを私は知っていた。“手、冷たいよ?”と、惚けた振りをしてみせる。
「まったく」
溜め息混じりに、呆れた様子で、そしてとびきりの優しさを滲ませながら、彼は言うのだ。
「あなたという人は」
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