彼女の左手首には、細い細い傷痕が何重にも刻まれていた。安価な刃物が幾度も横断したそれを見て、周囲の者は当然気味悪がったが、当の本人はそんなことお構いなしとでも言う様に傷を隠そうとはせず、それどころか制服の裾を腕捲りしてみせる始末だった。見せたいからその様なことをするのだという者もいたが、彼女は傷について何一つ語らないので本当のところどうなのかを知る術は無く、私はただ、時折増える新しいものが赤く腫れ上がって痛々しいのを、眉をひそめて見て見ぬ振りをするだけであった。
ある日のことだった。木手という男が、彼女の左手首を引っ掴んで絡み付くツタの様なそれに無感情な視線を落としているのを私は目撃した。そして彼はこう言ってのけたのだ。
「馬鹿ですね」
もっとも、この男は他人に気を回して慰みの言葉を掛けるなど万が一にも有り得ないと分かっていたので、「大丈夫」だとか「やめなさい」だとかいう在り来たりな展開は最初から期待していなかったが、こうも単刀直入に彼女の行為を否定し、それどころか馬鹿にしてみせるのだから、私は驚くしかなかった。レンズの向こうで煌めく瞳と緩やかに弧を描く唇は確かに相手を嘲笑っており、彼女はそれに苛立ちを覚えたのか、少しばかり表情を曇らせる。そのことを見越した様に「どうせ本気で死ぬ気など無いのでしょう」と続け様に付け加える彼は、本当に質の悪い男である。
だが、今度は彼女が彼を嘲笑する番だった。申し訳程度に捲ってあった制服の裾を更に肘の上まで引き上げてそこにあるものを彼に見せつけた彼女の口元は、先程の彼のものと全く同じ形に歪められており、その眼差しは「これでも“馬鹿”だと言い切れる?」とでも言いたげに彼を見据えていた。
それは、正確にはその傷は私も初めて見るものだった。肘の付け根から始まって、普段見え隠れする無数の傷跡の直前で終わる、美しいまでに真っ直ぐな直線。良質な刃物で刻まれたのであろうそれは、そこに躊躇や怖れというものが全く存在していなかったことを物語っており、彼女が死の覚悟を持ってその行為に及んだということがありありと見て取れた。
木手は、笑っていた。そしてこう言った。
「貴方は死にたいのですか?」
その口調は僅かながら何かを期待している様でもあり、彼女がその問いに対して自嘲気味に「“死にたかった”のよ、少なくとも」と答えると、彼はすかさず「では、今は?」と尋ねるのであった。
「今は、本当に死んでしまうことほど馬鹿馬鹿しいものは無いと思ってる」
「賢明ですね」
「利口、と言って頂戴」
死ぬ勇気すら無い方が何倍も利口なのよ、と付け加えた。そして彼女はこうも言った。
「私を殺してくれるの?」
その問いに対して彼が何と答えるのか、私は非常に興味があった。何故ならば、先程から今に至るまで彼の言動はまるで彼女の口から「死にたい」という言葉が零れるのを渇望している様だった為だ。否、彼は確実にそれを渇望していた。だからこそ、彼の二つ名が「殺し屋」であることが脳裏を過ったその刹那に彼が発した言葉に、私は意外性を感じたのである。
「まさか。馬鹿を言わないでください」
残念、と彼女は冗談めかして言ってみせた。
「本当に殺してしまうことほど愚かなものはありません」
「利口ね」
「賢明だと言って下さい」
捲った制服の裾を元に戻す彼女と、それを名残惜しそうに見詰める彼に背を向けながら、少なくとも私は彼女よりも利口で、彼よりも賢明な筈である、と思った。
100424
Kommentarer