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生熟れ

  • echo0607
  • 2 日前
  • 読了時間: 22分

SNSに掲載されたコラムか何かで見かけて、短い記事の中の踊るような文調にまんまと乗せられ、普段香水なんて滅多につけないというのに“欲しい”と願ったそれ。淡いコーラルピンクのボトル。公式サイトの説明書きやコスメサイトのレビューを読んでは、何度もその香りを空想することに耽った。頭の中で反芻したその香りは、どんな果実よりも瑞々しく、それでいて冬の湖面のような落ち着きも持ち合わせていて、体感したことのないくらい魅惑的だった。それもそのはず、私はそのときそれを手に入れていなかったのだから。


午後22時過ぎのくたびれ切った電車。湿気を纏った外気と冷房の気流とが交わる角席に腰掛け、座席の布地に肌が馴染んでいく感覚に身を委ねた。ブレスレットのチェーンが汗ばんだ腕に纏わりつく不快さに眉を顰め、左腕を二、三度軽く振ると、チェーンの隙間にこびりついた香水の匂いが鼻を掠めた。八月の短夜の湿度にはいささか調和の取れない、癖のあるラストノート。喉から手が出るほど欲しくて仕方のなかったその香りも、手に入れてしまえば何てことのない人工香料の溶け込んだ液体に過ぎなかった。結局、そのコーラルピンクの瓶が一番私を惹きつけたのは、手に入れることを渇望しながら香りを想像し、それを纏った自分に思いを馳せているときだった。左腕のブレスレットにしても同じで、ショーウィンドウのガラスケースの中で店の照明を反射させるそれを眺めていたときはあんなに輝いて見えていたというのに、差し出された紙袋の中の小箱を開けて掌に乗せたときの最初の感想は、”思ったより華奢だな”だった。


ブレスレットをくれた男とは、そのあと半月も経たずして連絡を取らなくなった。別に元々付き合っていたわけではない。彼のことは確かに好きだった。けれどもそれは、“私だけが”好きだったからだ。「喜ぶと思って」と言って紙袋を差し出す男がどんな表情をしていたか、私はもう思い出すことができない。曖昧に笑いながら御礼と歓喜の言葉を並べる自分の声が、どこか他人のもののように聞こえたのを最後に、私の頭はその男の姿を記憶に刻むことを辞めてしまった。

いつだってそう。「欲しい」と思っているときがいちばん私を惹きつける。いつからこんな風になったのか、アルコールで鈍くなった頭で思い出そうと試みたけれど、数分後には諦めていた。


社会人になり、“学生”という呪縛じみたレッテルを捨て去った恋愛は実に自由だった。受け身なままでは異性との出会いを得ることはできなかったが、自ら能動的に動けば動くほど、未知の世界に踏み入り、感じたことのない刺激に脳髄を幾度も焼かれた。異性との関係も多様で、“名前のない関係”なんてものも当たり前のようにあった。世間一般には褒められた間柄でないことは自覚しつつも、私たちの世界でそれはある種の“情緒”みたいなものを孕んだ哀調を帯びたものとして一つの地位を築いているように思えた。結局のところ、私はそうした曖昧な関係に身を置いて、ついぞ手に入ることのない相手の背中を追っているときにしか、自分自身の他人への強い衝動を感じることができなくなっていたのだ。増えていく男の連絡先を見るたびに、まるで尻軽女にでもなった様な気分になった。


時折こうして自分の自堕落な一面に向き合うたびに、嫌気が刺した。こうなるともう、何もかもが嫌になる。ワンピースの裾の糸がほつれているのも、ハイヒールの靴底が擦り減って金具が見えそうになっているのも、家を出るときはさして気にならなかったのに、今は、上っ面だけを取り繕ってそれらしく振る舞う自分が酷く薄っぺらい人間のように思えて仕方がなかった。こういうときに顔を見たくなる男が一人いる。鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージアプリで“佐伯虎次郎”の名前を呼び出すと「今から行っていい?」とだけ送った。メッセージの送信ボタンを押したときの緊張と高揚の入り混じった胸の高鳴りが、淀んだ空気を一掃していく。そしてその爽快感に浸るたびに、自分の気持ちがまだ彼に向いていることを実感するのだ。その後、私は一度もスマートフォンを開くことなく、自宅の最寄駅を二駅通過したところで電車を降りた。


*****


“今から行っていい?”


残業を終えて自宅に帰ると、見計らったかのようにスマートフォンの通知が鳴った。トップ画面に表示された名前とメッセージを一瞥すると、アプリを開くことなくスマートフォンをキッチンのカウンターに伏せて置いた。用事があるだとか、今日は来てほしくないだとか、そういう場合にしか返事は送らない。十数分経っても返事が来なければ“来ても良い”ということを、メッセージの送り主もよく理解しているのだ。しばらく待てば、そのうち玄関のインターホンが鳴るだろう。


ネクタイを外してクローゼットに仕舞いながら、夕食は何にしようか考えたが、夏の暑さと久々の残業で疲れ切った体は食欲というものをすっかり忘れてしまったのか、これと言って食べたいものは思い浮かばなかった。そうは言っても何か胃に入れておかなければと冷蔵庫の中を漁ったが、今日は金曜の夜、作り置きのおかずは全て食べ尽くしてしまい、あるものと言えば、実家から送られてきた桃の残りが二つと、安売りで買った賞味期限ぎりぎりのモッツァレラチーズ、使いかけのカイワレ大根くらいだった。近くのコンビニで何か買い足すか思案していると、ネットの記事で見かけたあるレシピが思い浮かんだ。これなら、今ある材料で何とかなりそうだ。桃とモッツァレラチーズをまな板の横に並べ、ワイシャツの袖を捲った。


包丁の背を桃の皮に押し当て、撫でるように何度か往復させる。こうすると皮が綺麗に剥ける。皮を剥いた桃を櫛状にカットし、まな板の端に寄せたところで、ふと、「酒が飲みたい」という衝動に駆られた。疲れたとき、どうしようもなく気分が鬱積したとき、どういう訳か無性に料理がしたくなる。特段拘っているわけではないが、自分にとって料理をすることは一つのストレス発散なのだと思う。そして、そうやってキッチンに立つときは必ずと言って良いほどアルコールを口にしたくなるのだ。

薄手のグラスに氷をぎゅうぎゅうに敷き詰めると、シンク下からウイスキーの瓶を取り出して適当な量を注いだ。常備している炭酸水の口を開けてウイスキーの上からグラスに注ぎ、マドラー代わりに箸の持ち手部分で氷を数回浮かせる。空きっ腹にアルコールを入れるのも気が引けたので、まな板の隅に寄せた桃の切れ端を口に含んだ。じわりと広がる果肉の甘みを、ハイボールで流し込むと、桃の香りがアルコールに乗って鼻を突き抜けた。炭酸が喉奥で爆ぜる感覚が心地良い。もう一口、もう一口とグラスを往復させるうちに残り少なくなり始めたので、ウイスキーと炭酸を継ぎ足し、レモン汁を数滴垂らした。

桃の残りひと玉を一口大に切ってガラスの深皿に入れ、ラップをかけて冷蔵庫に入れると、今度はモッツァレラチーズの処理に取り掛かる。つるんとした白い球体を水でよくすすぎ、キッチンペーパーで水気を取ると、先ほどの桃と同じくらいの厚さに切り、平皿に桃とチーズを交互に並べて輪を作った。岩塩とブラックペッパーを振り、レモン汁をひと回し、そしてオリーブオイルを惜しみなくかける。彩りが足りないことに気がつき、本当ならイタリアンパセリかベビーリーフを添えたいところだが、常備しているはずもなく、仕方なくカイワレ大根の根を落として輪の真ん中に盛り付けた。最後に、調味料の棚からピンクペッパーの瓶を探り出すと、全体に少しだけ散らす。ピリリとしたスパイスの香りの中に、薔薇の花弁のような華やかさが広がった。


そうこうしているうちに、玄関のインターホンが鳴った。モニター画面を確認すると、見慣れた女の姿があった。電気ケトルのスイッチを入れ、グラスに氷水を注いでローテーブルに置くと、濡れた手をタオルで拭きながら彼女を出迎えた。玄関のドアを開けると、外の熱気と共に彼女が纏っている香水の香りが室内に雪崩れ込んだ。あまり好きではない匂いだ。正直、彼女に似合っているとは思えなかった。


「ごめん、仕事終わりだった?」

「いいよ、たまたま残業が長引いただけだから」


ハイヒールの踵に指をかけようと屈んだ彼女の肩から、巻きの取れかかった栗色の髪が零れ落ちた。薄くなったファンデーションの内側から、上気した頬の赤みが透けて見える。すっかり口紅の落ちた唇の薄桃色が、かえって色めかしかった。ヒールの靴底が玄関の床を打ち鳴らし、熱帯夜のぬかるんだ空気に硬く鋭い音を鳴り響かせた。


****


見慣れたアパートの一室、インターホンを鳴らしてしばらくすると、部屋の主、佐伯虎次郎が私を出迎えた。何やら料理をしていたようで、捲ったワイシャツの裾から覗く腕に水滴が付いている。普段の彼ならこの時間はとっくに仕事を終えており、部屋着や私服で会うことが多いからか、見慣れないワイシャツ姿に少しだけ胸がくすぐったくなった。


「ごめん、仕事終わりだった?」

「いいよ、たまたま残業が長引いただけだから」


リビングのローテーブルには氷水が並々と注がれたグラスが置かれていた。「水、沢山飲むんだよ」と言って、佐伯はキッチンに戻っていった。グラス以外何も置かれていないぴかぴかのガラスのローテーブル、ふかふかのカーペット、埃ひとつないTVラック、部屋の片隅で青々とした葉を広げる観葉植物……佐伯の部屋は、いつ訪れても整理整頓が行き届いていた。佐伯は“ちゃんとしている”人間だった。私と違って。

不意に、ワンピースの裾がほつれて糸が出ているのが目に入り、どうして出掛ける前に処理してこなかったのだろうと悔やんだ。多分、こういうところの積み重ねが自分自身を「軽い女」として仕立て上げているのだと思う。自分でも薄々気付いていた。「わたし、軽い女かなあ」と何の気無しに呟くと、佐伯は少し驚いた顔をした。普段、余裕綽々とした態度で私を振り回す彼の表情が崩れたので、少し勝ち誇ったような気分に浸った。それもつかの間、「どうしたの、急に」と言って鼻で笑った。その仕草すらも馬鹿にされているような気がしてならない。

だってそうでしょ?と質問に質問で返すと、あっさり「そうだね」と肯定された。


「普通、飲んだ後に男の部屋に転がり込むかな」

「佐伯はいいの」


酔い醒ましの水を飲み干し、グラスをテーブルに音を立てて置いた。からん、とグラスの中の氷が虚しい音を立てて揺れる。今度は彼は「そうだね」とは言わなかった。代わりに「水、もっといる?」と気遣う声がキッチンから聞こえた。先程と同じく間髪入れずに「そうだね」と言ってくれれば少しは楽になれたのかもしれない。テーブルに残った水の輪を指先で何度もなぞりながら、そんなことを思った。


これまで幾度となく佐伯の部屋を訪れたことがあるが、彼とは一度だってそういう行為に至ったことはなかった。何度か酔った勢いでキスをせがんだこともあったが、「そういうのは本当に好きな人とするものだよ」と、拒絶されてしまった。その言葉は、私の気持ちが歪んだ形で彼に届いてしまっていることを意味すると共に、彼が私のことを好いていないということの何よりの証明となった。佐伯の気持ちがこちらを向かない事実は、私の中でやけっぱちな感情を膨らませて、異性関係において私をどんどんと自堕落にさせていった。

佐伯は私を拒まない。“拒まない”というだけの事実を、彼に受け入れられていると都合よく解釈して、淡い期待に寄りかかるために度々彼の部屋を訪れた。いっそのこと私のことを拒んでくれたら幾分か楽になれるのに、と何度も思ったが、どういうわけか佐伯はそれをしなかった。私を拒まないという行為が積み重なるほど、彼のことが欲しくて仕方なくなる。“欲しい”と願うほどに魅力は増し、手に入らないことを自覚するほどにまた欲しくなる。加えて、佐伯が安易に私に手を出さないという事実は、自分が彼に大事にされているというある種の期待となって、いつまでも満たされない胸の内を僅かながら灯し続けた。結局のところ、私はこの堂々巡りから抜け出せる気がしないのだ。

「飲む?あったまるよ」と気を利かして水ではなく温かいココアを差し出すその行為にすら、淡い期待を抱いてしまう。儚い希望であることを知りながら。真夏にココア?と一瞬だけ頭をよぎったが、電車の冷房に当てられて冷え切った体に、温かい飲み物はありがたかった。きっとそれすら彼の気遣いの範疇なのだろう。


「なあに、これ」


ココアを受け取ろうとキッチンへ向かうと、カウンターの上に置かれた平皿に盛られた何かが目に留まった。よく熟れた桃と白い楕円形の何かが交互に並べられ、輪を成している。円の中心には彩り程度に添えられたカイワレ大根が少し。黄金色に輝くオリーブオイルの海の中に、黒胡椒と、濃いピンク色の小さな丸い球体が泳いでいた。


「桃とモッツァレラチーズのカプレーゼ。実家から桃が送られてきたから、作ってみたんだ」

「へえ、すごい」


聞いたことのない料理名。桃とモッツァレラチーズを一緒に食べるだなんて、考えたこともなかった。


「このピンクの丸いつぶつぶは?」

「ピンクペッパー、香水とかによく使われてるスパイスだよ。食べてみたらわかると思う」


言われるがままに、平皿の上の桃とチーズを一切れずつまとめて指で掴み、生牡蠣を食べるみたいに下から齧り付く。


「こら」


行儀が悪いよ。と、右手を軽く叩かれた。


「あ、ほんとだ。知ってる香り」


桃の瑞々しい甘さと、モッツァレラチーズのクリーミーな口溶けの後を追うように、オリーブオイルの青々とした香りが鼻を突き抜けた。舌の上でブラックペッパーがピリリと弾ける。桃やオリーブのフルーティーな瑞々しさと、スパイスの刺激の双方に寄り添いながら、ピンクペッパーが料理全体に華やかさを付加していた。言われてみれば、こんな匂いのする香水を嗅いだことがある。レディースの香水に多いような気がする。何という名前だったか。


「ほら、食べるなら使いなよ」


そう言って差し出された銀のフォークの持ち手を、そっと手で押し返す。


「もういらない。わたし、桃はそのままの方が好きかも」

「そう言うと思ったから、カットしておいたよ。冷蔵庫に入れてある」


そう言って再度私にフォークを手渡し、カウンターの平皿を取ってリビングへ向かう佐伯の左手には、氷と炭酸の入ったグラスが握られていた。キッチンには、見慣れないウイスキーの瓶。


「佐伯がお酒を飲むなんて、珍しいね」

「俺にも飲みたくなるときくらいあるさ」


リビングのソファでグラスを傾けながら海外ドラマを観ている佐伯の隣に腰掛ける。触れるか触れないかの距離。すると佐伯は即座に私との距離を僅かに開けて、数センチほどの隙間を作った。そんなに私に触れられるのが嫌なのか、と、一瞬だけ落胆しそうになるが、きっとそういうことではないのだろう。

室内には、海外ドラマの英語の台詞と、食器にフォークが当たる音だけが鳴り響いていた。桃を口に運び、グラスを傾ける彼の横顔を眺め、きっと普段もここでこんな風に食事を取っているのだろうと思った。何だか、最初から私なんてここにいないような、そんな疎外感のようなものを感じた。佐伯と結ばれていたら、この時間はまた違った意味を持っていたのかもしれない。同じ空間で各々違うことをしていても、こんな風に疎外感を感じることもなく、日常の一片として、同じ時間を共有していると感じられたのかもしれない。

佐伯と何ともない日常の中の仄かな幸福感を積み重ねられるような関係になれたらと、幾度となく考えたが、正直なところ、そうなった先でその幸せを他の男と同じように手放してしまわない、佐伯だけはそうならないという確固たる理由を、私はもう見出せなくなっていた。

ぼんやりと画面を眺めながら、半ば無意識に桃を口に運んだ。口いっぱいに桃の果汁が広がったが、求めていたほど甘さはなく、酸味の方が優っていた。あれ、桃ってこんなに甘くなかった?と一瞬戸惑うが、先ほどココアを飲んでしまったからだということに気がつく。不意に、隣の佐伯が声を発した。


「え、なに?」

「この俳優、最近映画に出てなかった?」

「さあ、どうだろう」


本当は、その俳優が出ているという映画のタイトルを知っている。最近公開されて、ちょうど観たいと思っていた映画だ。“一緒に観に行きたい”と言ったら、佐伯は何と返事をするだろうか。考えてみたけれど、私と佐伯が並んで映画館の座席に座り、スクリーンを眺めているところをどうしたって想像できなかった。甘くなくなってしまった桃をフォークの先で転がしながら思った。私たちは出会うのが早過ぎた、と。


*****


スマートフォンの通知欄でその名前目にしたとき、残業の疲れを一瞬にして忘れるくらい、気分が高揚していた。玄関で彼女と対面したとき、本当はすぐにでも抱きしめたい衝動に駆られていた。そうしなかったのは、随分前に聞いた彼女のある一言が、ずっと耳にこびりついているからだ。


「わたし、欲しいものを手に入れると、途端に興味がなくなっちゃうの」


ゆったりとしたスムーズ・ジャズが耳に心地良い、落ち着いたカフェの店内で、アイスコーヒーの水面に頭を出した氷をストローで浮き沈みさせながら、彼女はそう口にした。頬杖をつき、どこか気だるげな雰囲気を纏わせながらも、その声色は見た目とは裏腹に“鋭さ”みたいなものを感じさせ、彼女が真剣そのものであるということが伝わってくる。「どうして?」と問うと、「さあ、わかんない」という返事だけが返ってきて、しばらくの間、ハイハットの裏打ちが小気味良い店内BGMと、食器とカトラリーとぶつかる硬質な音だけが鼓膜を刺激した。彼女はアイスコーヒーの氷を浮き沈みさせることをやめ、今度はストローの包み紙を指先で丸め始めた。


“手に入れると途端に興味がなくなる”


その頃、俺は既に彼女のことを異性として意識し始めていたので、「こちらの気も知らずに」などと内心恨み言を言いたい気分になったが、そのときはまだあまり現実味を帯びていなくて、どこか他人事のように彼女の話に耳を傾けていた。実際、その後彼女は何人もの男のことを好きになり、付き合ってみては、ものの数週間で別れるということを繰り返した。最初の頃は、「また駄目だった」と愚痴を溢しながら自宅に足を運ぶ彼女を迎え入れては、結局自分のところに戻ってくることに少しの優越感を覚えたりもしたが、別れた男の人数を数える指の本数が増えるたびに、少しずつその優越感は削り取られていった。そしていつからかは分からないが、彼女の気持ちがこちらを向いていることを自覚するようになってからは、あの日カフェでアイスコーヒーの氷を突きながら何とは無しに発せられたその言葉は、ある種の呪縛となって俺を支配していった。


歪な形でお互いを想い合う関係性を保ったまま幾度となく重ねられた逢瀬は、同じ時間を共有しながら小さな幸せの粒を喰む感覚を麻痺させていった。今はもう、彼女と結ばれた先で、自分だけが他の男たちと同じような結末を迎えないと言い切れる明確な理由を見出せない。そしてそんな宙ぶらりんな状態の関係を続けるうちに、ここ最近は「このまま想いを悟られないでさえいれば、彼女はまたここに戻ってきてくれる」などという妙な気さえ起こるようになっていた。自分でもどうかしていると思う。けれども、それが事実であることを強固にしていくかのように、彼女が自宅を訪れる回数は日に日に増えていった。

最近思うのだ。俺たちは出会うのが早過ぎたのではないか、と。もう少し成熟した大人になっていれば、彼女の子供じみた悪癖も幾分かましになっていたかもしれないし、姑息なやり方で彼女を縛り付けることもなかったかもしれない。


「この俳優、最近映画に出てなかった?」

「さあ、どうだろう」


夜の帷の降り切ったワンルームのアパートで、二人の男女が指先一本分の距離を保っていた。液晶画面に映した海外ドラマは、何となく雰囲気が良かったから点けただけで、内容なんて碌に頭に入ってきてはいない。会話の少ない二人の間に流れる妙な空白を、ドラマの俳優の台詞が埋めていった。

桃とモッツァレラチーズをフォークで串刺しにして口元へ運ぶ。口内に残ったチーズのもったりとした後味を消すようにハイボールを流し込むと、炭酸が弾けるのに合わせてピンクペッパーの華やかな風味が駆け抜けた。意外と合う組み合わせだな、なんて思いながらキッチンに戻ってウイスキーと炭酸水を注ぎ足し、グラスの中の黄金色の液体の中にピンクペッパーを数粒、指の腹で擦り潰して入れてみた。今日は普段より飲むペースが早い。加えて、ほとんど空きっ腹なところに酒を流し込んだので、酔いが回るのも一段と早かった。アルコールが体内を駆け巡る感覚に溺れた脳は、俺を普段より幾許か饒舌にさせた。


「来週の金曜日、仕事が早く終わったらレイトショーでも観に行かない?」


気が付けばそんなことを口走っていた。思えば、彼女とは距離の近さや付き合いの長さの割に、映画然りデートらしいデートをしたことがなかった。「今更過ぎない?」などと言われるだろうか。それならそれで良い。今から関係性を軌道修正できる術があるのなら、それに賭けてみるのも悪くないのかもしれないと思いつつも、実のところ少しだけ緊張していた。数秒の間ののち、ドラマの台詞の合間を縫って規則正し苦穏やかに起伏する呼吸音が聞こえた。リビングに戻ると、ソファの背もたれに体を預けて眠る彼女の姿があった。


ベッドの脇からタオルケットを持ち出し、ソファに横たわる彼女の体を覆うように掛けてやると、途中でタオル生地が何かに引っ掛かる感触があった。タオルケットを一部剥がしてみると、左手首に巻かれた華奢なブレスレットのチェーンに糸が絡んでいる。鎖が切れないよう、そっと糸を手繰ってみたが、慎重になればなるほどタオルケットに接している別のチェーンの網目が糸を掬い取って、ますます絡まっていくばかりだった。加えて、アルコールが回って普段より幾分か頼りない手元に、少しずつ焦りと苛立ちが募る。このままではいつか鎖が切れてしまうと思い、彼女の腕からブレスレットを外した。数分ほどかけてやっと糸を解き終え、改めてタオルケットを掛け直す。布の端を持って宙に放ると、ふわりと彼女の香水の香りが鼻を掠めた。何かの果実を模ったのであろう、甘い人工香料の香り。その合間を縫って、スパイスの刺激を嗅ぎ取った。ピンクペッパーだ。この香りが、彼女の香水のものなのか、それとも自分が先ほど指の腹で潰したそれなのか、もう分からなくなっていた。


傍で静かに寝息を立てる彼女を見下ろす。巻きの取れかかった栗毛が、肩や胸の上で緩やかに波打っている。伏せた瞼の上で、僅かに残ったアイシャドウのラメが部屋の照明を反射し、星屑に似た瞬きを纏っていた。薄く開かれた唇の隙間から漏れる吐息が、随分と近くで聞こえるような錯覚に囚われた。薄水色のタオルケットが、体の輪郭に沿って流れる水を思わせる皺を幾重も模っている。まるで水辺に横たわる人魚のようだ。儚さと静けさが同居した寝姿は一枚の絵画のように優美で、洗練されていて、次第に吸い込まれるようにして、気づけば彼女の薄桃の唇に自分のそれを押し当てていた。

今日の俺は、どこかおかしい。まるで得体の知れない魔物が棲みついたかのように四肢の感覚が鈍く、まとまらない思考は言動を幾許か大胆にさせた。夏の暑さに頭をやられたからか、あるいは残業で疲れ切った体が判断力を鈍らせているのか。思えば、キッチンに立ってウイスキーの瓶を手にしたときから、少しおかしかったのかもしれない。噛み合わないまま回り出した歯車は、がちゃがちゃと音を立ててかろうじて形を為していた理性となけなしのプライドを解いていく。そしてそれを止める術を俺は知らなかった。


数秒後、唇が離れる名残惜しい感触と共に瞼を開けると、いつの間にか開かれていた彼女の瞳と視線が重なった。虹彩の筋のひとつひとつがはっきりと見えるくらい近くに彼女の顔があることに、今更ながら心臓が跳ね上がり、身体中にどっと熱いものが駆け巡る。

“どうして”と、彼女は口にした。そこに表情らしきものはなく、瞬時に「しまった」と自分の行いを悔いた。瞬きをすることすら忘れたかのように大きく見開かれた目と、対照的に緩みきって重力に身を委ねた口角。唇の隙間から漏れる浅い吐息に合わせるように、僅かに上下する鎖骨の窪み。


「どうして、“今”なの?」


“ごめん”と口にするのを遮るように、彼女は自嘲気味に笑い「謝らないでよね」とだけ言って再び瞼を下ろした。


*****


「来週の金曜日、仕事が早く終わったらレイトショーでも観に行かない?」


背後から投げかけられたその言葉を耳にしたとき、本当は眠ってなどいなかった。ちょうど今しがた自分も同じことを考えていたので、胸の内を透かして見られているのではないかという猜疑心が思考を遮り、上手い返答を見つけられずにいるうちに数秒が経っていた。仕方なく私は、この数秒間の沈黙を利用して狸寝入りすることにした。


キッチンから近づいてくる足音に耳をそばだてる。しばらくすると、空気がふわりと体を撫でる感触とともに、柔らかいタオル地の布が掛け下ろされた。途中、左腕を引っ張られる感覚に反応して、うっかり目を開けそうになる。どうやらブレスレットのチェーンにタオルケットが絡まったらしく、佐伯は私の腕からそれを外すと、随分と長い時間をかけて糸を解いて外そうと格闘していた。背中を丸めて作業に没頭する彼の姿を薄目を開けて眺めているうちに、本当の睡魔に襲われ、うとうととうたた寝をしはじめた。


どのくらいの間眠っていただろうか、数分が、あるいは一時間か、時間の感覚を捉えるより先に、自分の唇に暖かいものが押し当てられていることに気がつく。目を開けると、佐伯の伏せた瞼が目の前にあった。“今、わたし、佐伯とキスをしているんだ”と、妙に冴え渡った頭で考えたが、それは起きていることを言語でなぞっているに過ぎず、事態を飲み込んでいくにつれて、胸の中をじわじわと嫌悪感に似た何かが支配していった。彼は何故こんなことをしたのか。邪な考えで自分の欲を満たすために私の体を利用しようとしたのか。否、佐伯がそんな愚かしい行為をするような人間でないことを、私はよく知っている。だからこそ、私の唇に触れている人肌が憎らしかった。

すうっと、頭の中に立ち込めていた靄が晴れ、冷静さを取り戻していく。欲しかったものを手に入れた後の、体の熱が冷めていく感覚とはまた違う、波が引いていくような、妙な感覚だった。一度引いてしまった波は、再び岸辺に辿り着く頃には、別の砂や貝を含んでいるだろう。

“どうして”と、掠れた声がどこかから聞こえる。自分の声だった。


「どうして、“今”なの?」


本心だった。どうして今なのか。私と佐伯は、こんな形で結ばれるはずじゃなかった、と、胸の中の小さな私が叫んでいた。こんな、アルコールに浸されて燻った空気を孕んだままで良いはずがないのだ。糸のほつれていないお気に入りのワンピースに身を包んで、くるくると巻いた毛先を踊るように遊ばせて、しっかりとお化粧もして、とっておきの自分でこの日を迎えるはずだった。そんなことを考えるうちに、“薄っぺらい”と感じていたものが己自身ではないということに、ようやく気付いたのだった。空虚な時間を食むうちに擦り減らされた彼への気持ちは、結ばれるその日のシチュエーションを反芻するだけの、薄っぺらい一枚の紙切れとなっていた。

唇を噛むと、ピンクペッパーの香りが鼻をついて煩わしかった。

佐伯の唇が「ごめん」と謝罪の言葉を模るのを「謝らないでよね」という一言で遮ると、再び瞼を下ろして深く息を吸い込んだ。ガラステーブルの上で冷たい光を反射させるブレスレットの残光が瞼の裏に焼きついて、しばらくの間消えなかった。

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