前頭部を押さえ付けられる様な痛みに耐え兼ねて目が覚め、いよいよ今年もこの季節がやって来たのかと直感したのは、日が昇り始めて間もない早朝だった。
梅雨。雨が降って降って、時にこのまま永遠に止まないのではないだろうかと思ってしまう程毎日毎日同じ様に降り続け、それでいて毎年大体同じ時期にぴたりと降り止む、何とも不思議な季節である。私はこの季節が嫌いで嫌いで仕方が無い。雨がもたらす潤いも梅雨時特有の湿気も、別に煩わしいとは感じないが、にも関わらずこの季節を嫌悪するのは、私が所謂ところの「低気圧頭痛」持ちであるためだ。
大抵の人はこの手の頭痛は低気圧が近付くと痛み始め、雨が降り出すと和らぐのだそうだが、それは一般的な例であって私には当てはまらない。一言で「低気圧頭痛」と言っても症状は様々で、私の場合雨が降ろうが降らまいが低気圧が頭上を通過している限り痛み続ける。要するに梅雨時の私とは常に頭痛との闘いを強いられている訳で、その苦痛と言ったら「辛い、ああ辛い」と一日中言い続けても足りないくらいである。だから私は梅雨が嫌いだった。
頭痛のせいで普段よりも早く目覚めてしまった私は、食欲など殆ど無いに等しかったが気休め程度に味のしない朝食を無理矢理胃に押し込んで、鬱々とした気分を引きずったまま学校に向かった。誰もいない教室に足を踏み入れて、そこで初めて今が登校には早すぎる時刻であることに気付かされたが、それは頭痛と奮闘する私の頭にはもはや気に掛けるべきでないどうでも良い事柄である。室内に入るや否や一直線に自分の席へ向かって机に突っ伏した私は、空の段ボール箱の様にがらんどうの教室の中で椅子を引く音が妙に響くのを聞いて、それを最後に微睡みの中に身を任せた。
「お、今日はえらい早いな」
室内を支配していた沈黙に突如一滴の雨粒の様に注がれたその声によって、頭痛だか睡魔だかよく分からないもので奈落の底へと沈みかけていた私の脳は意識を取り戻す。
顔をもたげて前方を見ると、目の冴える様な金髪が人懐っこい笑みを浮かべて「おはようさん」と言いながら此方に向かって歩いて来ているところだった。彼の背負っている重たそうなスポーツバックが一歩ごとにゆさゆさと揺れ、揺れる度に椅子や机にがたんがたんと当たってきちんと揃っていたそれらの列を壊してゆく。
「ん、おはよ」
「どないしたんや、今日は朝から元気あらへんな」
「俺は浪速の…」とお決まりの台詞と共に全力疾走で登校する謙也の姿が脳裏に浮かび、お前は朝っぱらから元気があり過ぎるんだと言ってやりたかったが、もはやそれを言う気力すら持ち合わせていなかった。文句を言う代わりに出て来たのは、こんな言葉である。
「今日、雨降るよ」
「……雨?」
「おん」
「そういや天気予報でそんなこと言うてたな。せやけどあれはあんまりアテにならへんで」
「天気予報やない」
「誰予報や」と尋ねる彼に「私予報」と答えれば「何なんその自信は」と、半分馬鹿にした様な笑いを含ませた声が返ってきた。
「私、低気圧頭痛持ちやねん」
「せやから何や」
「雨降る前とかに頭が痛なって分かるんや」
「ほんで?」
「今朝辺りから頭がんがんしてな……」
そこまで言いかけたところで、目の前で目をぱちくりさせて私をじっと凝視する彼を見て、これはきっとあれであれがああなってこうなんだな、とパズルのピースががしゃがしゃと音を立ててはまる様にして、二人の間に広がる噛み合わない空気の全貌が見えてきた。
「謙也、知らんの」
「何が」
「低気圧頭痛」
「おう知らん」
「医者の息子やろ」
「医者の息子っちゅうてもまだ中学生やし。せいぜい風邪とインフルエンザの違いくらいしか分からへん」
「阿呆、一般常識や」
「自分、さっきと言うてること違うで」
ほんで低気圧頭痛ってなんや?と真面目な顔で尋ねる彼に、億劫だと思いながらも渋々あるだけの知識を絞り出して説明してやると、こともあろうかこの男は私の詳しく且つ分かり易い説明を
「つまりアレや、低気圧アレルギーやんな」
と、この一言で片付けたのだ。しかも何だその「低気圧アレルギー」とやらは。新しい医学専門用語か何かかと思ったが、そもそもこいつは風邪とインフルエンザの区別くらいしかつかない、否、その区別がつくかどうかも定かでない奴だった筈である。失礼ながら奴がそんな難しい単語を知っている訳が無いと思い至ったところで、頭痛で思考力が衰えた私の頭はようやくにしてそれが彼の造語というか、彼なりのジョークであることに気付く。「せやろ?」と念を押す様に言って笑う彼に力無く頷くと、「ほんまに辛そうやなあ」と言って眉を八の字に下げた。
「頭痛薬持ってるで」
「いらん。薬効かへんのや」
「そうなんか」
笑いは通用せん、薬も効かへん、敵わんなあ、と八の字眉毛の両端を更に下げて呟く彼の右手が私の頭を撫でた。
「堪忍な。俺にはこのくらいしか出来へんわ」
彼のごつごつと角張った大きな手が私の頭を規則的な動きで何度も行き来する。私のものより一回りも二回りも大きくて凹凸の激しいその手はまさしく男のものであったが、裏腹にそれが成す動きはまるで壊れ物を扱うかの様に繊細で優しかった。私の髪がそれに合わせてするりするりとしなやかに形を変え、短いものが彼の指の間から姿を消すのを髪越しに感じて、こんなことなら昨夜トリートメントをしておくべきだったなどと考える。不思議だ。先程までは頭痛のことで一杯だった私の頭が、今ではこんなことを考えられる程の余裕を持っているのが、不思議だ。
「ずっとそうしとって」
「お、おん」
「授業中も」
「無理や、俺の席向こう」
「頑張ったらええやん」
「二メートルも三メートルも先に手ぇ伸ばせっちゅーんか」
「謙也なら出来るんとちゃう」
「出来へん出来へん」
相変わらず頭痛は治まるところを知らなかった。頭にぐるりと一周紐でも巻き付けてぎりぎりと締め付けられている様で、そこへと固い物を積んで無理矢理押し上げる様にして流れる血液が、脈拍と共に更なる痛みをもたらした。だが、彼の手が私の髪の上を滑る度に、痛みという名の皺がそっと引き延ばされ、しこりの様になって私の頭に留まっていたそれを首の後ろへ追いやって少し楽になる。気がした。
「あ、雨や」
不意に、彼が頭を撫でる手の動きを止めて窓を指差した。
「ほんまや」
家を出たときはまだ晴れており、降り始めるのは昼過ぎだろうと予想していたのだが、どうやら雲は抱え込んだ水の重さに辛抱が効かなかったらしい。大きな雨粒が“ぼつ、ぼつ”と音を立てて窓ガラスという無色透明な壁に当たり、歪んだ波紋と不規則に曲がりくねる道筋を作って落ちてゆく。どんよりと雲を立ち込めた空から降り注ぐ短い直線の様に見えるのは雨で、それは真下に広がる灰色の街並みを徐々に色濃く染めていずれ街だけでなくこの室内も普段より幾分か暗くするのであろう。
「あかん、俺、傘持って来てへん」
「………あ、私も」
100314
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